斉子内親王 (醍醐天皇皇女)とは? わかりやすく解説

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斉子内親王 (醍醐天皇皇女)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/04 23:07 UTC 版)

斉子内親王
続柄 醍醐天皇第17皇女

全名 斉子/済子(せいし/ただこ/きよこ)
出生 延喜21年(921年
死去 承平6年5月11日936年6月2日
父親 醍醐天皇
母親 源和子
役職 伊勢斎宮
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斉子内親王(せいし(ただこ/きよこ)ないしんのう、延喜21年(921年) - 承平6年5月11日936年6月2日))は、平安時代中期の皇族済子とも表記する。醍醐天皇皇女。母は女御源和子。同母兄弟に常明親王式明親王有明親王慶子内親王韶子内親王がいる。朱雀天皇朝の伊勢斎宮(ただし、伊勢への群行はない)。

延長元年11月18日(923年12月28日)、同年7月に誕生した寬明親王(後の朱雀天皇)の親王宣下と合わせて内親王宣下を受ける(『一代要記』)。この時期に誕生した皇子女は一律に源氏臣籍降下させる方針があったと考えられているが、正妃である中宮藤原穏子皇位継承の可能性がある寬明を生んだことでこの方針が揺らぎ、まだ臣籍に下っていなかった斉子も同時に宣下を受けたと考えられている[1]

承平6年(936年)3月の異母姉・雅子内親王の退下により、16歳で斎宮に卜定されるが、同年5月11日に薨去。恐らく初斎院入りもなかったと見られる。これにより、姪の徽子女王(後の斎宮女御)が9月に後任として卜定された。

脚注

  1. ^ 安田政彦「雅子内親王と醍醐皇子女の源氏賜姓」『平安時代の親王と政治秩序-処遇と婚姻-』吉川弘文館(2024年)、P87-90.(原論文『日本歴史』第721号、2008年6月)

参考文献




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