数値の正確化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:07 UTC 版)
黄色い雲により表面が暗くなることは1870年代スキアパレッリが観測したときから知られていた。1892年と1907年の衝の際はこの雲の証拠が観測された。1909年、アントニアディは黄色い雲がアルベド地形の隠蔽に関与していることに気付いた。彼は火星が太陽に接近していて地球から衝の位置にあるとき、黄色く見えることを発見し、エネルギーを受け取っていると分かった。彼は風により飛ばされた砂や土が雲の原因となっていると提唱した。 1894年、アメリカのウィリアム・ウォレス・キャンベルは火星のスペクトルが月のスペクトルとほぼ一致することに気付き、火星の大気が地球に似ているという考えに疑問が出た。以前火星の大気中から水が検出されたときは悪条件だったと説明され、キャンベルは水が地球の大気から検出されたと突き止めた。彼は極冠に氷があることに賛成していたが水蒸気が検出されるほど大きくないと考えた。キャンベルの考えは物議を醸し、天文学の共同体から批評されたが1925年ウォルター・シドニー・アダムズによって確認された。 ドイツのヘルマン・シュトルーベは扁球型をした火星の重力の影響を決定するために火星の衛星の軌道の変動を観測した。1895年、彼はこのデータを用いて赤道直径が極直径より190分の1ほど大きいことが分かった。1911年、精度が正確になり192分の1と分かった。この結果は1944年、アメリカのエドガー・ウィリアム・ウロード(英語版)によって確認された。 1924年、ウィルソン山天文台の2.54mフッカー望遠鏡に搭載された真空の熱電対を用いてセス・B・ニコルソンとエジソン・ペティット(英語版)は火星の表面から放射される熱エネルギーを測定できるようになった。彼らは火星の気温を極で-68℃、中心で7℃に及んでいると突き止めた。同年、アメリカのウィリアム・ウェーバー・コブレンツとカール・ランプランドにより火星の放射測定が行われた。その結果、夜には温度が-85℃にまで落ち、日中と大きく変化することが分かった。火星の雲の温度は-30℃であると測定された。1926年、アメリカのウォルター・シドニー・アダムズは地球と火星の軌道運動によるスペクトル線の赤方偏移を測定し、酸素や水蒸気の大気中の量を測定した。彼は火星には人の住めないような状態が多いと突き止めた。1934年、アダムズとTheodore Dunham, Jr.(英語版)は火星の酸素の量が地球の1%にも満たないことが分かった。 1927年、オランダのCyprianus Annius van den Boschは火星の衛星の運動をもとに火星の質量を決定し、0.2%まで正確だった。この結果は1938年ウィレム・ド・ジッターにより確認された。1926年から1945年、地球近傍小惑星であるエロスを用いてEugene K. Rabe(英語版)は小惑星の摂動から内惑星だけでなく火星の質量を推定することができるようになった。彼の推定では誤差が0.05%ほどしかないが後の確認で彼の結果は他の方法と比較して決定されたものだという説もある。 1920年代、フランスのベルナール・リヨは旋光計を用いて月と火星の表面の性質を調査した。1929年に彼は火星表面から放出される偏光が月から放出されるものに似ていると気付いたが、彼は霜や植生の偏光によるものとして推定した。火星の大気により散乱した太陽光の量をもとに彼は、大気の厚さの上限は地球の大気の厚さの15分の1と設定した。これはつまり気圧は2.4kPa程度になるということである。1947年、赤外線分光器を用いてオランダ系アメリカ人のジェラルド・カイパーは火星の大気中に二酸化炭素を発見した。彼は火星の表面の二酸化炭素の量を地球の2倍と推定した。しかし彼は火星の気圧を高く見積もり過ぎていたため、誤って極冠に二酸化炭素の氷はないと結論づけてしまった。1948年、アメリカの隕石学者Seymour L. HessI(英語版)は火星の薄い雲には4mmの水が必要であり0.1kPaの蒸気圧があると突き止めた。 火星のアルベド地形の最初の命名法は1960年、IAUにより導入され、アントニアディの1929年の地図から128の名前が採用された。1973年、IAUはThe Working Group for Planetary System Nomenclature (WGPSN)を設立し、火星や別の天体への名称の案を統一した。
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