火星の軌道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:07 UTC 版)
ギリシアでは背景の星と関連のある7つの天体をplanētonと呼び、地球中心に天体が動いているという考え方が展開された。惑星について定義された最古の記述はプラトンが記した『国家』である。彼の目録には地球からの距離が近い順に並べられており、月、太陽、金星、水星、火星、木星、土星、固定された星の順に書かれている。彼のティマイオスという本では天体の順行が距離に依存し遠いほど遅く動くということを提唱した。 プラトンの学徒、アリストテレスは紀元前365年に月による火星の掩蔽を観測した。このことから火星は月からよりも地球からの方が遠いと結論づけた。彼は別の天体の掩蔽もエジプトやバビロニアで観測されていたことに気づいた。アリストテレスはこの証拠を使い惑星の順序を決定した。彼が著した天体論では地球の周りを太陽や月、他の惑星が固定された距離で回っているという宇宙のモデルを提唱した。また、ヒッパルコスは地球の周りにある従円の周りを周転円が回っているという複雑なものに発展させた。 2世紀頃のアエギュプトゥスではクラウディオス・プトレマイオスが火星の軌道の運動の問題に対処するように試みた。火星の観測結果では軌道の速度が一方では他方より40パーセントほど速く、アリストテレスのモデルでの動きが変わることのないという主張に矛盾が生じてしまったのである。そこでプトレマイオスはエカントという点を設け、この点に対して一定の角速度で動くと修正した。また、彼は惑星の順番を月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、固定された星の順であると提案した。プトレマイオスは自身のモデルを『アルマゲスト』に掲載し、西洋の天文学において今後4世紀に渡り信頼のできる専門書となった。 5世紀のインドではSurya Siddhantaという本で火星の角直径が約2分と推測され、地球からの距離は10433000 km(1296600由旬)と推測された。これにより火星の直径は約6070km(754.4由旬)と推定され、現在の6788kmから11%しか誤差がない。しかしこの推測では惑星の角直径の計測が杜撰であり、望遠鏡による測定とのズレが顕著だった。この推測はプトレマイオスが測定した1.57'に影響されたのではないかと言われている。どちらの値も後に望遠鏡で得られた各直径よりかなり大きい。 ケプラーによる地球を中心として考えたときの火星の動きAstronomia Nova(1609年) 2013年から2018年の火星の動き これらの図は火星の地球からの方向と距離を表したものである。衝や逆行は約2年ごとに起こり、大接近は約15から17年毎に起こる。 1543年にニコラウス・コペルニクスは太陽中心のモデルを考え、『天球の回転について』を出版した。これにおいて金星と火星の間に地球の軌道が設けられた。彼の考えでは火星、木星、土星の逆行についても説明が可能となった。コペルニクスは惑星を太陽からの公転周期により正しい順番で並べ替えることができた。彼の仮説は徐々に受け入れられ、特にエラスムス・ラインホルトがプロイセン表を1551年に出版した後にヨーロッパで広く受け入れられた。 1590年10月13日、ミヒャエル・メストリンは金星による火星の掩蔽を観測した。彼の学徒、ヨハネス・ケプラーはすぐにコペルニクスの考えを支持するようになった。メストリンによる教育が終了した後、ケプラーはデンマークの天文学者、ティコ・ブラーエの助手となった。ティコの観測した火星の記録を見るのが許されるようになるとプロイセン表の代替品を集めた。円軌道での火星の動きでティコの記録と何度も合わせるように試行錯誤した後に、ケプラーは軌道は楕円軌道であり、太陽はその焦点であると気付いた。彼の考えはケプラーの法則への基礎となり1615年から1621年の間にはEpitome Astronomiae Copernicanaeが発行された。
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