教育および初期の仕事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 17:52 UTC 版)
「ケイト・グリーナウェイ」の記事における「教育および初期の仕事」の解説
ケイトはその子供時代、生活上のストレスから逃れるために空想にふけることが多く、多くの人から「変わった子供」と評されていた。しかしケイト自身は「子供の頃はとても幸せな時間を過ごした。不思議なことに、全く同じ環境にいる兄や姉よりもずっと幸せだった」と語っている。反面、その空想癖のために人付き合いを苦手としており、学校に通うのはほぼ不可能なほどだった。そこで母は彼女と姉妹に家で勉強させたが、ケイトはどの科目にも集中できず、姉妹が勉強している間、ただ絵を描いているだけで満足していた。不幸にも、幼少期の不規則な教育により、彼女は文字に対する理解が不十分であったため、後にイラストに合わせて詩を書くことが難しくなった。 彼女が芸術への情熱を見出したのは1857年、12歳のときに、年上のいとこに付き添う形でフィンズベリー美術学校に入学してからである。当初は女性専門の夜間コースでデッサン、磁器画、木彫刻、石版画を学んでいたが、ケイトの熱意を見た両親は、1年後、彼女を全日制に移籍させた。ヘンリー・コールによって考案されたカリキュラムは、装飾用の壁紙やタイル、カーペットなどをデザインする職人を養成するためのもので、幾何学的な要素や植物的な要素を、創造性を持たずに忠実にコピーすることに重点が置かれていた。ケイトは1864年にここでのカリキュラムを修了し、サウスケンジントンの王立女子美術学校に進学する。 ケイトはかなり内気な性格で、自分は他の学生に比べて地味で魅力がないと思っていたが、人気者のエリザベス・トンプソンと出会って意気投合する。二人はスタジオをシェアし、ともに熱心に学んだ。ケイトは石膏模型から始め、次に歴史的または装飾的な衣装を着たモデルを使って人物を描くことを許されたが、着衣のモデルでは筋肉や骨格について完全に習得することは難しかった 。女性のクラスではヌードモデルが許可されないことに不満を抱いたケイトはヘザーリー美術学校の夜間クラスにも通い始め、ここでエドワード・バーン=ジョーンズ、ウォルター・クレイン、エドワード・ポインターらと出会った。 1871年、ケイトはポインターが校長を務めるスレード美術学校にも入学する 。ポインターはヘンリー・コールの厳格なカリキュラムからの脱却を目指し、学生たちに表現力や創造性を高めるように指導した。しかしここでも女性と男性の授業が分離されていることに、ケイトは再び不満を覚えた。 このように熱心に学びながらも、一方でケイトは展覧会の準備をする時間を確保し、キャリアアップのために商業的な仕事も引き受けるようになる。1867年に『Infant Amusements』の表紙を描いたのが最初で、これを機に子どもの本を専門に扱うようになった。彼女の評判は、国立女子美術学校での受賞と、初期の展覧会によって高められた。1868年には妖精の水彩画を出品し、『ピープルズ・マガジン』の出版者であるW. J. ロフティがこれを購入している。その1年後にはFrederick Warne & Coが、トイブック版『ダイヤモンドとヒキガエル』のために6枚のイラストをケイトから購入した 。1871年、Gall & Inglisはダルニー夫人の童話を出版し、彼女はその挿絵を描いている 。この年、彼女は授業を受ける傍らで70ポンド以上の収入を得ていた。 ケイトの作品は色彩があまりにも派手で、それは彼女自身も自覚していた。これは、ケイトが色刷木版の色彩プロセスについて技術的な知識を持っていなかったことに原因があった。そこで彼女は頻繁にナショナル・ギャラリーを訪れ 、お気に入りだった『アルノルフィーニの肖像』を描いたヤン・ファン・エイクなどの巨匠に学んだ。また、大英博物館の写本室にも入り、装飾写本を研究している。
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