改造と拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 16:07 UTC 版)
都市防衛施設によって護られていた地域には最初、市場、現在の旧市庁舎、聖ヨハニス教会および聖ヤコービ教会の2つの主要教会と小教会である聖ニコライ教会、さらに重要な交通路であるヴェーンデ通り、グローナー通り、ローテ通りが含まれていた。防衛施設の外、ガイスマーラー門の前には聖アルバーニ教会を含む、「ガイスマーラー・アルテス・ドルフ」(直訳すると、ガイスマーラーの古い村)と呼ばれる古い村落があった。この村は中世盛期にはヴェルフ家の支配域の一部に過ぎず、このため都市特権の適用外とされ、市壁による防衛の埒外に置かれた。 市は、初め土塁によっても護られていたが、遅くとも13世紀末までには土塁の上に壁が築かれた。この古い防衛施設は現在、トゥルム通りのマウアートゥルム(直訳すると、壁の塔)と壁の一部が遺されている。当時の防御範囲は最大600m×600mで、広さ約25haであった。これはハノーファーよりも小さいものの、近隣のヴェルフ家の都市であるノルトハイム、ドゥーダーシュタット、ミュンデンよりも大規模であった。土塁の建設に対する許可は1362年にブラウンシュヴァイク=ゲッティンゲン公エルンスト1世によって与えられたが、建設には最終的に200年以上かかった。 人々は、領主から命じられた出城の施設を建設し、不可欠な修理を行い、さらには改良を加えた。こうして建設期間は合計400年に及んだ。土塁をあるべき状態にするには膨大な金と労力が必要だった。初めは生け垣のある低い盛り土と一重の堀が築かれた。これは後に板塀と低い壁で囲まれた塁壁で強化された。防塁の最終形態は、堅牢な防壁と塁壁、連なった池を組み合わせた広い堀、防塁の外側に設けられた少なくとも30基の塔、一連の堡塁と外部砦を備えていた。4つの主要な門は、古い市壁の門とそれぞれ組み合わされており、「外門」と呼ばれていた。 市壁の南をゴーテ川が流れ、この頃には運河でライネ川と結ばれていた。「ライネ運河」と呼ばれたこのライネ川の分流は、現在では街沿いにより多くの水が流れている。 ヴェルフ家の分割相続に伴って、アルブレヒト2世(肥満公)が1286年に南ニーダーザクセン地方の領主権を獲得した。彼はゲッティンゲンを宮廷所在地に選び、旧市街北部にある城、Ballerhus(Bahrhus ともいう)に入城した。1300年までに、市壁の西側、ライネ運河の対岸のノイシュタットに、両側に建物のある長さ800mの町並みが造られた。アルブレヒト2世は急速に発展するこの街に経済と政治との新たなバランスを創造し、自らの権力を強化しようと意図したのである。しかしアルブレヒト2世は発展するゲッティンゲンが西に向かって拡大することを阻止できず、むしろゲッティンゲン参事会がノイシュタット発展のあらゆる機会を摘み取った。この試みが失敗に終わった後の1319年にゲッティンゲン市参事会はわずか300マルクでこの不愉快な競合相手の土地を買い占めた。ノイシュタットの南に最初はノイシュタット教区教会として聖マリエン教会が建造された。この教会は1318年に隣接する農場ごとドイツ騎士団に移譲された。 13世紀後半に旧市街の周辺に2つの修道院が設立された。旧市街東部、現在のヴィルヘルム広場の場所にまずフランシスコ会修道院が設けられた。構成の市史編纂者フランシスクス・ルーベクスの主張によると、フランシスコ会は1268年からこの地にあった。清貧と謙譲をモットーとするフランシスコ会修道士は靴を履いておらず、人々は彼らを「Barfüßer」(裸足の人)と呼んだ。この呼び名は修道院への通りに名残を留めており、現在でもこの通りは「Barfüßerstraße」(バルフューサー通り)と名付けられている。1294年にアルブレヒト2世はドミニコ会修道士に、ノイシュタットの対岸、ライネ運河沿いのパーペンディークに修道院を設立することを許した。その修道院教会は1331年に献堂されたパウリーナ教会として利用されている。 13世紀後半にはユダヤ人もこの街に住んでいた。1289年3月1日にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公はゲッティンゲン市参事会に対して、ユダヤ人を市内に住まわせる許可を与えた。ユダヤ人は主に現在のユーデン通りの聖ヤコービ教会付近に住んでいた。ゲッティンゲンにおいてもユダヤ人の歴史は中世からすでに大きな苦難に満ちていた。1369年または1370年にオットー1世がユダヤ人に対する裁判権を市に譲渡して以降、この街でも流血の迫害や追放が繰り返された。1460年から1599年までの100年間、ゲッティンゲンにはユダヤ人は住んでいなかった。 14世紀から15世紀は、ゲッティンゲンにとって経済上の全盛期であった。建築物もその証拠となっている。14世紀前半にゴシック様式のホール式教会として聖ヨハニス教会の新築が開始された。1330年から聖ニコライ教会もゴシック建築に建て替えられた。聖ヨハニス教会の工事完了後、14世紀後半には聖ヤコービ教会の新築工事も始まった。1366年には現在の市庁舎旧館の主要部分も建設された。ただし、現在見られる建物の姿は15世紀中頃の基本特性を留めている。 1360年頃に市の環状防壁が新たに造り直された。この時ノイシュタットやアルテ・ドルフも防壁内に取り込まれた。こうした建設工事に伴って、4つの市門はさらに外側に移され、市域面積は約 75 ha にまで拡大した。
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