改造と長命の末の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:42 UTC 版)
「箕面有馬電気軌道1形電車」の記事における「改造と長命の末の終焉」の解説
11 - 18は、1949年8月7日に発生した京阪京津線の四宮車庫の火災で焼失した車両の不足を補うため、1949年から1950年にかけて分離再独立前後の京阪電気鉄道に転出した(詳細は後述)。 1949年12月には33が、1950年10月には9がそれぞれ電動貨車化され、33→203、9→201となった。この時点で電動車として残った7と8は、甲陽線で単行から2両編成で運用されることとなった。 一方、付随車化された車両については、1950年2月に5が51形51・78の鋼体化改造に併せて本格的な半鋼製車体化改造を実施、引き続いて残りの全車も1952年までに完全半鋼製車体化された。改造内容は両端に広幅貫通路を設けて運転台スペースの仕切りを撤去し客室化、客用扉を自動化した。側窓も元の飾り窓部分を一旦撤去し、窓の天地寸法を拡大して側窓と客用扉の上辺にウインドヘッダーを取りつけ、その分幕板が狭くなった。この時も、1 - 6と19以降には車体に若干の違いが発生している。また、連結器の胴受装置にバネを組み込んで走行中の横揺れを抑える改良が加えられた。 半鋼製車体化改造後の付随車グループは、51形や300形、500形の中間に組み込まれるようになり、1952年の宝塚線規格向上工事完成後はモーターの搭載基数を2基から4基に増強した300形300 - 309の中間に2両ずつ組み込まれ、4両編成を組成した。また、規格向上工事完成前後に、神戸線から宝塚線に転出した600形の代替に、19 - 21が300形310 - 315の中間に組み込まれて今津線に転出している。 7と8は電動車として残り甲陽線で運用されたが、1955年4月の7が夙川駅で車止めに乗り上げて車体を破損した事故を機に51系ともども610系へ更新されることとなり、同年7月に更新工事が施された。台車や電装品は51・78に継承されている。また、500形の中間に組み込まれた1 - 6は1955年までに今津線に転出した。このうち、3は同年11月に直流600V直接点灯による余熱方式の蛍光灯試験車となり、車内照明の蛍光灯化におけるデータの提供に貢献した。 1956年2月2日に発生した庄内事件では、本形式が庄内駅で立ち往生する500形の中間車に組み込まれている写真が残されている。 1956年の高性能車と同じ車体を持つ機器流用車1200系の新造導入に際し、1形と300・550・600・610・900・920の各形式間で大規模な台車と電装品の振替を実施して1200系に装備する主要機器を捻出、その代わりに1形は廃車されることとなった。1200系への代替は1956年8月から開始され、翌1957年12月までに32を除く18両が廃車された。 代替対象外となり1両だけ残った32は箕面線を中心に小型車各形式の中間車として運用され、後には320形の中間車として使用されていたが、1962年1月に廃車となり、1形は形式消滅となった。 なお、電動貨車化された4201は宝塚線の架線電圧の600Vから1500Vへの昇圧に伴い1969年8月に廃車されたが、4203は昇圧改造を受けて引き続き西宮車庫の救援車として配置され、1982年5月に4050形の導入に伴い廃車となった。
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