箕面有馬電気軌道1形電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 00:21 UTC 版)
箕面有馬電気軌道1形電車(みのおありまでんききどう1がたでんしゃ)は、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が開業時の1910年から翌1911年にかけて33両新造した、木造車体の電車である。
注釈
- ^ 路線の骨格は、同社が持っていた池田から大阪市内への直通路線構想を生かしたものであった。
- ^ 高野鉄道や大阪電気軌道も、終点や経由地を見る限りは純然たるインターアーバンと言いがたい部分がある。
- ^ 『鉄道ピクトリアル』1989年12月臨時増刊号や『車両発達史シリーズ3 阪急電鉄 神戸・宝塚線』では2両編成運行に投入されたのは1 - 18となっているが、『阪急電車形式集.1』では全車が2両編成運行に充当されたようになっている。
- ^ 後に87・88に改番。
- ^ 1 - 18は飾り窓の形状が残っていたのに対し、19 - 32は平坦な形状となっている。
- ^ 改造年月は19 - 28が1935年5月、29 - 32が1936年11月。
- ^ 15の中央扉は京阪大津線への応援転属後もしばらくの間改造されずに残されており、1形では最も長く客用扉が改造されずに残ることになった[1]。
- ^ 203の車番としては2代目、のちに3203を経て4203に改番。
- ^ こちらも201の車番としては2代目、のちに3201を経て4201に改番。
- ^ 新旧車番の対比は7→634、8→635。
- ^ これと同時に51・78は98・99に改番されることとなり、51系は形式消滅している。
- ^ 完全半鋼製車体化後の車体を基にしているため、簡易半鋼製車体化時の車体にはなかったウインドヘッダーなどが残っている。
- ^ 本来の機器類は、今も保管されているといわれている。
- ^ 「のりもの館」での保存時に履いていた、貨車の200号車が使用していたブリル27E-1台車から、のりもの館前に展示されていたブリル27E-1台車(もともと1形に使用されていた物)に戻している。
- ^ 共に、譲渡先で台車の換装や再電装が施されている。
- ^ 復旧に当たっては石山坂本線の車両を全車高床化し、路面電車スタイルの車両は全車京津線に振り向ける方針が取られた。高床車の200型は、電気ブレーキを追加して急行運用に就くこととなった。
- ^ それ以前の1945年4月には34形36が大津線に転属しており、5型5として使用されていた。この際転属した34・35はその続番の6・7となった。
- ^ 正式の転入は京阪分離後の1950年4月。
- ^ 1949年12月1日に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が分離独立したので再び別会社となった。
- ^ 当時の京阪の車番の字体はローマン体であった。
- ^ 現在のHEP FIVEと阪急百貨店梅田本店との間の道路に敷設されていた。
- ^ 市電の停留所では東野田-片町間となる。
- ^ 当時は京津線と石山坂本線の浜大津駅は別の場所にあった。
- ^ さらに、運用末期には京阪線一般色である緑の濃淡に塗られた車両もあった[8]。
- ^ このため、浜大津 - 京阪膳所間(厳密には京阪膳所駅の手前)の上り線は1435mm軌条の内側に1067mm軌条を敷いた3線軌条であった。
- ^ 260型(形)は最終的に26両が更新改造された。
- ^ 30型は路面電車スタイルで製造され、全長約9.95mとかなり小型であった。
- ^ この区間は石山坂本線の前身である大津電車軌道時代の1913年から1914年にかけて開通し、当初は路面電車スタイルの車両が運用されていた。
- ^ 300型(形)は石山坂本線だけでなく京津線でも運用された。逆に260型(形)も京津線だけでなく石山坂本線の線内運用に充当されている。
出典
- 1 箕面有馬電気軌道1形電車とは
- 2 箕面有馬電気軌道1形電車の概要
- 3 簡易半鋼車体化
- 4 支線への転出と中間車化
- 5 改造と長命の末の終焉
- 6 保存車・1
- 7 参考文献
固有名詞の分類
- 箕面有馬電気軌道1形電車のページへのリンク