批判・疑問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 17:14 UTC 版)
と学会会員で歴史研究家・作家の原田実は、江戸しぐさは1980年代に芝三光によって「発明」された全く歴史的根拠の無いものであるとの疑義を呈している。 「時泥棒」に対し、“明け六つ”“暮れ四つ”程度で明確な時間意識のない江戸時代に「時間を奪う」という発想がなぜ存在するのか。定期的に時間を知らせるための鐘があったが、季節や昼と夜で時間の違う不定時法を基にした一刻(2時間前後)に1回というものだった。 「喫煙しぐさ」に対し、「喫煙禁止」という張り紙が、江戸時代に何故あったのか(江戸時代の料理店等では煙草盆が客に出されるのが当然だった)。 年始の挨拶は直接顔をあわせて行っていた時代に、なぜ「年賀状のマナー」があるのか。 「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれた江戸の人々が、本当にこれらのマナーを体系化していたのか。 洋傘と違ってスプリングが入っていない和傘の場合、狭い路地ですれ違うとき傘をすぼめる方が実用的であり、「傘かしげ」は江戸時代の風俗からかけ離れている。 戦争によって「隠れ江戸っ子」が絶えてしまったとか、当時の資料は焼き捨てられたので記録がないという理由で証明ができないという(大村益次郎の東下前の新政府軍は江戸の治安を維持する力さえ無く、逆に彰義隊士に殺害される事例が度々起こった、さらに、東叡山に赴き、彰義隊解散を説いた山岡鉄太郎の言葉を一蹴した覚王院義観は、彰義隊での強硬派であるにも拘わらず、「新政府軍による虐殺」について一言も触れていない) 江戸しぐさの「復興者」である芝三光の生前には江戸しぐさの数は200前後とされていたが没後に800 - 8000とされ、数が定まっていない。 既述のように越川禮子は江戸しぐさが衰退した理由として「江戸っ子虐殺説」を主張しているが、芝三光は江戸しぐさを提唱し始めた当初は「新政府のもとで江戸っ子達は自らを語ろうとせず時代の変化の中で、いわば世の中からひきこもってしまった」ために衰退したと述べており、江戸しぐさ推進者の間で主張が食い違っている。 NPO法人江戸しぐさの理事長の越川禮子は、江戸しぐさに関する資料は残っていないとし、また江戸しぐさは、口頭によって伝承されてきたものであるため、史料が残されていないと述べているが、1980年代には芝三光は江戸しぐさは文献によって確認できるものとしており、この点でも食い違いがみられる。 などと原田は、江戸しぐさの実態について疑問を呈し、強く批判している。また、原田は2014年(平成26年)に著書『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』でも、江戸しぐさに含まれる個々のマナーに考察を加えているが、やはり多くの江戸しぐさが、実際の江戸時代では不可能あるいは不必要であると指摘し、「捏造である可能性が高い」とコメントしている。 同書の出版に際し原田は、江戸しぐさは来歴そのものが「明確な虚偽」で、歴史的考証にまったく耐えられない、芝三光の愚痴を江戸時代に仮託したフィクションであり、これを「結果的によいマナーが浸透すればいいじゃないか」と推進することは、形だけのマナーの為に、道徳・倫理の根幹を破壊することになると主張、歴史的に正しい江戸文化に関する知識を普及させることと、過去に対する過剰に「良い幻想を持たないこと」を推奨している。
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