戸田家時代
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寛永12年(1635年)、摂津尼崎藩より戸田氏鉄が10万石で入って、以後は戸田家の支配で安定する。初代藩主・戸田氏鉄は寛永14年(1637年)の島原の乱で戦功を挙げる一方、地方知行制の廃止と俸禄制度の採用から新田開発、治水、治山、家臣団編成などに尽力して大垣藩政の基礎を固めた。また氏鉄は大垣城の整備を行い、明治に至る姿としている。このほか、氏鉄は文化事業でも儒学書を自ら著作するなどして発展させている。 第2代藩主・戸田氏信は明暦元年(1655年)、弟の戸田氏経、戸田氏好らに各4000石、戸田氏利に5000石を新田で分与した。 第3代藩主・戸田氏西は延宝2年(1674年)2月に弟の戸田氏広に新田2000石を分与した。延宝8年(1680年)からは延宝の大暇と称された藩政改革を行なったが、貞享元年(1684年)6月に死去したため、改革は失敗した。 第4代藩主・戸田氏定は貞享5年(1688年)7月、弟の戸田氏成に新田3000石を分与し、氏成は養父の氏利の知行と合わせて1万石を領する大名となり、大垣藩の支藩・大垣新田藩が立藩された。氏定は浅野長矩の従弟に当たるため、元禄14年(1701年)3月の長矩による吉良義央刃傷事件で連座し、5月まで出仕停止とされている。 第6代藩主・戸田氏英は延享4年(1747年)から延享の永御暇と称された藩政改革に着手したが、年貢増徴を行なったために明和3年(1766年)に百姓一揆が起こって失敗した。 第7代藩主・戸田氏教は上野館林藩主・松平武元の実子であり、その縁故で老中に抜擢されて幕政に参与した。 第8代藩主・戸田氏庸は天保11年(1840年)、藩校である致道館(のち敬教堂)を創設した。 第9代藩主・戸田氏正は、城代の小原鉄心と共に藩政改革を行ない、安政3年(1856年)には軍制改革も行なった。第10代藩主・戸田氏彬も藩政改革を行なうが、安政の大獄で挫折した。 第11代藩主・戸田氏共は第2次長州征伐に参加し、慶応2年(1866年)から藩政改革を断行している。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは大垣軍と新政府軍が戦い、朝敵に指定される(藩主の入京禁止)。しかし新政府に召されていた家臣の小原鉄心は直ちに大垣に帰国して先々代藩主である氏正とともに氏共や佐幕派を説得して尊王派に藩論を統一して謝罪、戊辰戦争では新政府軍に与して東山道軍の先鋒を務めている。そのため、明治元年8月には鳥羽・伏見の戦いに関連して同年4月に受けた処分が解除され、2年(1869年)6月に新政府から賞典禄3万石が下賜された。直後の版籍奉還で氏共は大垣藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により大垣藩は廃藩となり、大垣県を経て岐阜県に編入された。 明治17年(1884年)に華族令が公布されると、氏共は伯爵に叙せられた。氏共は昭和11年(1936年)まで存命して長寿を保った。また、家老の小原家は鉄心の明治維新時の活動が功績とされ、1900年(明治33年)に男爵に叙せられている。
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