戸田家時代とは? わかりやすく解説

戸田家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:46 UTC 版)

大垣藩」の記事における「戸田家時代」の解説

寛永12年1635年)、摂津尼崎藩より戸田氏鉄10万石で入って以後戸田家支配安定する初代藩主戸田氏鉄寛永14年1637年)の島原の乱戦功挙げる一方地方知行制廃止俸禄制度の採用から新田開発治水治山家臣団編成など尽力して大垣藩政の基礎固めた。また氏大垣城整備行い明治に至る姿としている。このほか、氏文化事業でも儒学書を自ら著作するなどして発展させている。 第2代藩主戸田氏信明暦元年1655年)、弟の戸田氏経、戸田氏好らに各4000石、戸田氏利に5000石を新田分与した第3藩主戸田氏西延宝2年1674年2月に弟の戸田氏広に新田2000石を分与した延宝8年1680年)からは延宝の大暇と称され藩政改革行なったが、貞享元年1684年6月死去したため、改革失敗した。 第4代藩主戸田氏定貞享5年1688年7月、弟の戸田氏成新田3000石を分与し、氏成は養父の氏利の知行合わせて1万石を領する大名となり、大垣藩支藩大垣新田藩立藩された。氏定は浅野長矩従弟に当たるため、元禄14年1701年3月の長矩による吉良義央刃傷事件連座し、5月まで出仕停止とされている。 第6代藩主戸田氏英延享4年1747年)から延享の永御暇称され藩政改革着手したが、年貢増徴行なったために明和3年1766年)に百姓一揆起こって失敗した第7代藩主戸田氏教上野館林藩主・松平武元実子であり、その縁故老中抜擢され幕政に参与した。 第8代藩主戸田氏庸天保11年1840年)、藩校である致道館(のち敬教堂)を創設した第9代藩主戸田氏正は、城代小原鉄心と共に藩政改革行ない安政3年1856年)には軍制改革行なった第10代藩主戸田氏彬藩政改革行なうが、安政の大獄挫折した。 第11藩主戸田氏共第2次長州征伐参加し慶応2年1866年)から藩政改革断行している。慶応4年1868年1月鳥羽・伏見の戦いでは大垣軍と新政府軍戦い朝敵指定される藩主入京禁止)。しかし新政府召されていた家臣小原鉄心直ち大垣帰国して先々代藩主である氏正とともに氏共や佐幕派説得して尊王派藩論統一して謝罪戊辰戦争では新政府軍与して東山道軍の先鋒務めている。そのため、明治元年8月には鳥羽・伏見の戦い関連して同年4月受けた処分解除され2年1869年6月新政府から賞典禄3万石下賜された。直後版籍奉還で氏共は大垣藩知事任じられる明治4年1871年7月廃藩置県により大垣藩廃藩となり、大垣県経て岐阜県編入された。 明治17年1884年)に華族令公布されると、氏共は伯爵叙せられた。氏共は昭和11年1936年)まで存命して長寿保ったまた、家老小原家は鉄心明治維新時の活動功績とされ、1900年明治33年)に男爵叙せられている。

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