戦闘後の英仏両国とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 戦闘後の英仏両国の意味・解説 

戦闘後の英仏両国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 10:05 UTC 版)

オルテガル岬の海戦」の記事における「戦闘後の英仏両国」の解説

ストラカン勝利により、ネルソンによって火ぶた切られトラファルガー戦役フランス完敗終わったオルテガル岬拿捕された4隻の艦と、連合艦隊フランス持ちであった5隻ばかりの艦はカディス封じ込められた。拿捕された4隻のフランス艦はイギリス持ち込まれイギリス海軍就役し、フランス艦の乗員捕虜収容所へとやられたフランス艦の1隻であるかつてのデュグエ=トルーアンは、その後144年にわたり、インプレカブル(英語版)としてイギリス海軍就役した。オルテガル岬戦闘加わったイギリス艦の乗員は、トラファルガー勝利大規模な褒賞対象となった。リチャード・ストラカン艦長青色少将昇進し一方で海尉全員コマンダーとなった 。さらにストラカンバス勲章授与され艦長たちはゴールドメダル受けた。 デュマノワールは敵軍ほどには恵まれなかった。彼とフランス人士官たちはティヴァートン(英語版)に宿舎与えられ大いに自由を満喫できたが、夏場午後8時、冬場4時までにターンパイク門の中に戻らなければならなかった。一方で彼らは、トラファルガーでの指揮に関する記事悪印象与えているとして、タイムズ抗議の手紙送った。デュマノワールは1809年釈放されフランス戻り、そこで一つのみならず二つもの査問出席要求された。ひとつはトラファルガーもうひとつオルテガル岬での敗戦の件だった。トラファルガーの方では、ヴィルヌーヴ指示に従わなかったこと、提督助けるために十分なことをしなかった件、参戦するのでなく戦列抜け出した件で告発された。さまざまな証拠提示され審理後で、デュマノワールは無罪となった2つ目の査問会では、11月4日にはまだ編成が十分でなかったストラカン戦隊交戦せず、交戦もしないのにイギリス戦列最後尾攻撃させたこと、最後尾圧倒されたことでストラカン交戦したことで有罪となり、査問会はデュマノワールがあまりにも煮え切らない結論付けた1810年1月評決海軍大臣ドゥニ・ドゥクレ(英語版)に渡されたが、ドゥクレは軍法会議開こうとはしなかった。ナポレオンはデュマノワールをやり玉に挙げることを望んだが、ドゥクレはデュマノワールをかばおうとし、ナポレオンの強い願望でついに軍法会議召集したものの、この会議は非常に漠然としたもので、結局デュマノワールと存命艦長たちは無罪放免された。

※この「戦闘後の英仏両国」の解説は、「オルテガル岬の海戦」の解説の一部です。
「戦闘後の英仏両国」を含む「オルテガル岬の海戦」の記事については、「オルテガル岬の海戦」の概要を参照ください。


戦闘後の英仏両国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:24 UTC 版)

マルタ護送船団の海戦」の記事における「戦闘後の英仏両国」の解説

フランスの降伏はエドワード・ベリーによって承認された、ベリーは、「リアンダー」が1798年拿捕されて、捕虜となった以来艦上任務だった。ネルソンとりわけ、「ジェネリュー」の拿捕喜んでいた。この艦は2年前のナイルの戦い逃した艦だった。「ジェネリュー」は損害軽微なもので、ミノルカ島に、「クイーン・シャーロット」に乗っていた海尉トマス・コクランと弟の士官候補生アーチボルド・コクラン(英語版)の指揮の下修理やらされた。この航海の間、「ジェネリュー」は強い嵐に見舞われた。嵐は1度きりであったが、コクラン兄弟リーダーシップ身をもって示した模範おかげで、どうにかマオーに着くことができた。「ジェネリュー」は、その後ほどなくしてイギリス海軍の軍艦「ゼネリュース」となったネルソンはエルフィンストーンによりヴィクトリー転属されたが、ネルソンハリントンとピアードを、フランス船団を見つけ出し戦闘持ち込んだことで大い称賛したフランス戦隊がマルタ着いた時にマルタ沖にイギリス戦隊出現したことは大部分が運によるものであり、戦闘後まもなくボールエマ送った手紙に、それはネルソンおかげであると記されている。 あなたが彼を天性提督と呼ぶのももっともなことだろう、彼の行く先々運命微笑んでいる。我々はマルタの沖で1年4か月にわたり封鎖続けその間敵は今月に至るまで救援投げ出すことはなかった。敵が島から数リーグ(約9.7キロから10.5キロ)の場所にいたその日閣下マルタ着き主だった艦を拿捕したので、敵は誰も港に入れなかった。 —アーンル・ブラッドフォード(英語版Nelson: The Essential Hero, 1977 エルフィンストーンは交戦結果満足したが、ネルソン海上封鎖任務について、決し戻らないように命令した。もしシチリアに行く場合には、シラクサ港を使うように命じた。エルフィンストーンはその後リヴォルノ向かったが、そこで突然の火災旗艦焼失し700人以上の乗員死んだ。しかし彼はその時乗艦していなかった。3月始めには、ネルソン海上封鎖任務うんざりしており、エルフィンストーンの命令反して再びパレルモ向かった封鎖指揮には「カローデン」とトマス・トラウブリッジ艦長残しておいた。3月ネルソンパレルモ休暇であったが、この時ナイルの海戦最後生き残りで、フランス戦列艦ギョーム・テルがマルタ脱出し1800年3月31日の海戦でフードロイアントのベリー率いイギリス戦隊負けたネルソン4月短期間引き返したが、艦上にはハミルトン夫妻乗っており、多く時間をマルサ・シロッコで、情事の「随行員」としてエマ過ごした 。 「ジェネリュー」の艦長シプリアン・ルノーダンと、「ヴィユ・ド・マルセイユ」のジョゼフ・アルマンは、共に艦を失ったかどで自動的に軍法会議かけられたが、無罪放免された。フランス海軍その後それ以上マルタに近づこうとはせず、その後試みではフランス艦は封鎖にあい、わずか1隻のフリゲート艦だけが封鎖破ってフランス戻ったペレー船団物資が届かなかったため、駐屯隊の間に飢餓病気蔓延し8月終わりには1日着き100人もの兵が死亡した9月4日、ヴォーボワは最終的に条件付き降伏をし、島をイギリス明け渡しその後164年間にわたりこの島はイギリス領となった

※この「戦闘後の英仏両国」の解説は、「マルタ護送船団の海戦」の解説の一部です。
「戦闘後の英仏両国」を含む「マルタ護送船団の海戦」の記事については、「マルタ護送船団の海戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「戦闘後の英仏両国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から戦闘後の英仏両国を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から戦闘後の英仏両国を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から戦闘後の英仏両国 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「戦闘後の英仏両国」の関連用語

戦闘後の英仏両国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



戦闘後の英仏両国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのオルテガル岬の海戦 (改訂履歴)、マルタ護送船団の海戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS