憲政の常道
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護憲三派が1925年(大正15年)7月に決裂し、加藤高明首相は辞表を提出した。西園寺は加藤首相を支持していたため、そのまま留任させるべきと考えていた。病気で引退した平田の後を継いだ牧野内大臣も同じ意見であったが、摂政宮裕仁親王は西園寺の上奏を受けた後に、牧野の意見を確認した。この方式は加藤高明首相の病死後の選定時にも継続されることになった。1926年10月14日、西園寺は摂政宮に拝謁し、「政変があった場合には、元老だけではなく内大臣にも下問がある」「西園寺が死去した場合は、内大臣が主に下問を受け、意見を求めたい人がいる場合は勅許を得て参加させる」と奏上した。これは牧野内大臣との事前打ち合わせなく行われたことであり、西園寺が元老の補充をあきらめた為と見られている。永井和は平田内大臣時に行われていた元老下問前の内大臣への下問とあわせ、「元老・内大臣協議方式」による首相選定であるとしている。しかし伊藤之雄は元老と内大臣は同格ではなく、両者が協議したような形容は内大臣を過大評価しすぎていると指摘している。 1927年(昭和2年)に第1次若槻内閣が倒れると、牧野内大臣は一木喜徳郎宮内大臣、珍田捨巳侍従長、河井彌八侍従次長と協議し、後継には第二党政友会の総裁である田中義一が適任であるとした。河井侍従次長は勅使として西園寺の元に向かい、協議した意見を伝えた。西園寺も同意見であると答え、田中義一内閣が成立した。1928年(昭和3年)に発生した張作霖爆殺事件の後、真相の公表方針を翻した田中に天皇及び牧野ら宮中は厳しい対応をとろうとした。これに対して西園寺は首相の辞任につながると反対したが、宮中はこれを押し切って田中への問責を行い、田中義一内閣は崩壊することになった。これは軍人・右翼・政友会等に牧野への反感と昭和天皇がそれに引きずられているという印象をもたらした。1929年(昭和4年)7月2日、田中が辞表を提出し、下問を受けた西園寺と牧野が宮中で会談したのち、西園寺が第二党立憲民政党総裁の浜口雄幸を推薦し、牧野が同意するという形で浜口内閣が成立した。ロンドン海軍軍縮条約締結に関しては、条約に反対する枢密院の倉富勇三郎議長と平沼騏一郎副議長が条約批准に反対しようとしていたが、西園寺は浜口首相を激励し、枢密院を折れさせた。しかし浜口首相は銃撃事件で重傷を負い、1931年(昭和6年)に辞表を提出したため、同じ民政党の若槻が後継首相となり、第2次若槻内閣が成立した。 西園寺はこの時期議会勢力に重点を置いた推薦を行い、衆議院第一党の党首を首相とし、第一党に問題がある場合は第二党の党首を首相とするという、いわゆる「憲政の常道」を実現させることとなった。西園寺自身は「憲政の常道」を認める発言を行ったことはなかったが、世論には受け入れられ、元老に対する批判もほとんど無くなっていった。しかし政党内閣は昭和恐慌や昭和金融恐慌に十分な対応がとれず、また疑獄事件も頻発したことで信頼を失っていった。
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憲政の常道
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大日本帝国憲法下では、1925年(大正14年)に普通選挙法が制定されたのち、二大政党である立憲政友会と憲政会(のち立憲民政党)とが、憲政の常道に基づいて交互に政権を担当した時期があった。 両者の特徴として、政友会は保守的で地主や大財閥の利益に密接であり、現代の自由民主党に近いものであった。一方で民政党は「議会中心主義」を掲げ、革新的で都市部の中産階級から支持されており、旧民主党(のちの立憲民主党など)に近いものであった。
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