感染経路の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:54 UTC 版)
「地方病 (日本住血吸虫症)」の記事における「感染経路の研究」の解説
確証はないものの経口感染説が広がり始め、甲府盆地の有病地では川や用水の水をそのまま飲むことを固く禁じ、飲料水の煮沸が義務付けられた。しかしそれにもかかわらず新たな感染者が次々に発生する状況に変化がないことから、経口感染説は間違っているのではないかとの疑問が出始めた。有病地の住民をはじめ行政関係者からも、飲み水からなのか、皮膚からなのか、はっきりさせてほしいとの声が大きくなり、2人の研究者による動物実験が1909年(明治42年)6月に行われた。 日本住血吸虫の発見者である桂田富士郎は、岡山医専の長谷川恒治と共に、岡山県小田郡大江村西代地区(現:岡山県井原市高屋)の有病地水田において、イヌとネコを用いた実験を行い、京都帝国大学医学部教授の藤浪鑑は、金沢医専の中村八太郎および片山地方の開業医吉田龍蔵の協力の下、広島県深安郡川南村片山地区(現:広島県福山市神辺町片山)の有病地水田において、4グループに分けた17頭のウシを使った実験を行い、感染経路の論争決着に臨んだ。 藤浪鑑によるウシを利用した比較感染実験経口感染予防経口感染予防せず経皮感染予防丙グループ 2頭ウシ小屋に隔離して小屋の外には出さない。飲食物は全て煮沸したものを与える。 乙グループ 7頭ウシの全身を防水用具で覆い、水と接触しないようにして、有病地の水田や小川への出入りを意図的に繰り返す。そこで自由に草を食べさせたり、水を飲ませたりする。 経皮感染予防せず甲グループ 6頭特製の口袋でウシの口を覆い、飲食できないようにして、有病地の小川や水田への出入りを意図的に繰り返す。飲食物は全て煮沸したものを与える。 丁グループ 2頭口にも全身にも、何も施さない。有病地での飲食も行動も完全に自由。 実験に使用したウシは非流行地の広島市から運ばれた。実験期間を1か月とし、実験終了の時点で牛糞検査を行い、全て殺して解剖し門脈に日本住血吸虫がいるかを検証する。 藤浪は土屋と同じく経口感染説の支持派であり、今回の実験では乙、丁グループに感染が起こるはずで、経皮感染を想定した甲グループに感染が起きるはずがないと絶対的な自信を持っていた。ところが実験の結果は藤浪の予想に反したものだった。経皮感染を予防した丙、乙グループは全く感染しておらず、経口感染を予防した甲グループが全頭感染していたのである(どちらの感染も許した丁グループは、当然であるが感染していた)。同様に桂田の行った動物実験でも、経皮感染を示す結果であった。 また、京都帝国大学皮膚科の松浦有志太郎により、片山地方の水田から採取した水に自分の腕を浸すという自らの体を使った決死の感染実験が行われた。松浦も経口感染を信じていた研究者の一人であり、かつ皮膚科としての見識から経皮感染説には疑問を持っていた。松浦は有病地滞在中、飲食物は全て煮沸したものしか口にせず、皮膚にかぶれが起きるのか慎重に経過を見守ったが、2回に及ぶ自己感染実験では感染は成立しなかった。ところが3度目の自己感染実験で松浦はついに感染してしまう。 松浦は藤浪らの動物実験とほぼ同時期の1909年6月下旬、皮膚にかぶれが起こると農民から聞いた水田で、右足には何も付けず、左足にゴム製のゲートルを着用した状態で有病地水田を数時間歩くと、何も付けなかった右足側にのみ、足の甲から水に浸かっていた膝にかけて、かゆみを伴う赤い斑点が発症した。翌日にかぶれは引いたが、実験から約1か月後、京都の研究室へ戻っていた松浦は体調の異変を感じ、まさかと思いつつ自ら検便を行うと自分の血便の中に日本住血吸虫の虫卵を確認し、その後しばらくの間、虫卵の排出が続いた。幸い10月に入ると松浦の体調は落ち着き、それ以上の病状悪化は進まなかったが、結果的に経皮感染の検証を裏付けるものであった。 藤浪鑑による比較感染実験の結果経口感染予防経口感染予防せず経皮感染予防丙グループ 2頭 感染なし 乙グループ 7頭 感染なし 経皮感染予防せず甲グループ 6頭 感染 丁グループ 2頭 感染 3人の実験結果を知った他の医師や研究者はにわかには信じられず半信半疑であった。寄生虫が皮膚を介して感染するなど、当時の医学界の常識では考えられないことであった。経口感染を主張した土屋岩保も自説を曲げられず、桂田や藤浪と同様に65頭ものイヌをグループ分けした追実験を、1910年(明治43年)8月、西山梨郡甲運村(現:甲府市横根町)を流れる十郎川(北緯35度39分26.5秒 東経138度36分46.8秒 / 北緯35.657361度 東経138.613000度 / 35.657361; 138.613000 (十郎川実験地))で行った。 経口感染を信じて疑わなかった土屋であったが、自らの主張とは正反対の藤浪や桂田の実験と同様の結果になり、経皮感染を認めざるを得ず、「地方病の感染は皮膚からである」と山梨県知事に報告し、学会内の意見も経皮感染に統一された。 農民たちが泥かぶれと呼んでいた皮膚のかぶれは、日本住血吸虫の幼生(次節で解説するセルカリア)が、終宿主である哺乳類の皮膚を食い破って侵入する際に起きる炎症であり、今日ではセルカリア皮膚炎 (Cercarial dermatitis)、ICD-10 (B65.3)と呼ばれているものである。 ヒトへの感染ルートが飲食物経由ではなく、水を介した皮膚経由であることが判明したことは、その後の感染予防対策の困難さを予見させるものであった。経口感染であるなら飲食物の煮沸によってある程度は感染予防が可能であるが、肉眼で見る限り汚濁もなく清潔に見える、小川や水田(水系全般)などの自然水を介した経皮感染となれば簡単な話ではない。健康な皮膚であっても感染罹患する日本住血吸虫症の予防対策は困難なものであり、後述するように病気の撲滅には長い年月を要することになった。
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