恋愛と縁談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 02:19 UTC 版)
女子体育の指導者として同時代に活躍した井口阿くりや藤村トヨと比較しても結婚の機会は豊富にめぐってきた上、この2人よりも結婚願望が強かったにもかかわらず、トクヨは生涯独身であった。しかし、年を重ねてからも結婚願望を抱き続け、弟の真寿は40代・50代になっても結婚への希望を捨てていなかったと語っている。1933年(昭和8年)、52歳にして受けた新聞のインタビューで、トクヨは理想の男性像に「侵略的な男」を挙げ、智・仁・勇を兼備している必要があると答えた。教え子には人の妻となり母となることがいかに幸福であるか、そして女子体育はそれを叶えるものであることを説き、そのような女子体育を実践し続けた。 最初の縁談は、三本木小の恩師の仲介で、仙台出身の東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)の学生との間で持たれた。先方が東京から帰る時に、トクヨは福島駅で合流し、同じ列車で宮城県に帰ることもあったほどの仲となり、結納まで進んでいた。先方は母子家庭で、トクヨの卒業と同時に結婚して家庭に入り、母の面倒を見ることを要望したが、トクヨは福島師範3年生(18歳)で、女高師への進学を夢見ており、進学と婚約は両立できるものと考え、女高師を受験、合格を果たした。女高師に進学すると、トクヨの思いに反して、先方は破談を申し入れた。トクヨの家族は「法科の学生なのに人権無視だ」と憤り、仲介した恩師も「縁がなかった、意に介することはない」と慰めた。この経験は長らくトクヨに暗い影を落とし、上京時には赤門の前を通ると破談にした男と出くわすのではないかとひやひやし、その男が別の女性と結婚したと風の噂で聞いた時には悶絶した。イギリスから帰国した際に、家族に松島旅行を勧められるも、新婚旅行で松島に行く予定だった苦い思い出からトクヨは拒否し、「人の心も知らないで」とつぶやいた。 高知師範では恋愛を経験している。相手は歩兵第44連隊の青年将校で、トクヨが慰問のため衛戍病院を訪ねたのが出会いのきっかけであった。2人は順調に仲を深め、結婚を意識するまでになったが、連隊長が反対したため破談となった。弟の清寿は姉トクヨから事の次第を手紙で知らされたが、掛ける言葉が見つからなかったという。 東京女高師の助教授時代には、福島師範の同級生の母親がトクヨを心配して仲人を買って出てくれた。仲介された相手は海軍少佐で、トクヨと同じようにわけあって結婚できなかった人物であったことから、トクヨに深く同情し、自分と結婚したらもっと悲惨な目に遭わせてしまうと発言した。この時トクヨは母方の叔父・小梁川文平を同伴していたが、文平は「忙しいのに」とひどく不機嫌で、仲人の家に着くと「おみやげはどうするんだ」と言い、先方の同情発言も理解していなかった、と手紙に記している。そうこうしているうちにトクヨのイギリス行きが決まり、縁談は自然消滅、先方はトクヨの留学中に別の女性と結婚した。 東京女高師教授に就任した時には34歳になっていたが、トクヨはまだ若いつもりで、「老女流教育家を前にして、古くなった軍艦をおばあさんの船にたとえる講演会が学校であって、おかしくて仕方なかった」と家族に話し、弟の真寿は内心「そのうち自分もおばあさん船の仲間になってしまうくせに」と思っていた。そんなある日に縁談が持ち込まれ、相手の男性はある分野で知名度の高い人物であった。トクヨは一旦この縁談を断るも後から気になり出し、真寿に再交渉を依頼した。真寿は仲人だった人物に会いに行って事情を話すと、既に先方は婚約者が決まったと伝えられ、「もっと早く言ってくれたら」と残念がられた。真寿はトクヨに手紙で結果報告をし、トクヨから「二日二晩飯も食わずに泣き明かした。もう迷わないで女子体育という使命に生きる」という旨を記した長々しい返事を受け取った。 最晩年になっても、トクヨは体専の若手男性教師を校長室に呼び、疑似恋愛のようなものを楽しんでいた。佐々木秀一は校長室に気軽に出入りを許された教師の1人で、佐々木を応対するときは、普段の孤独感を漂わせず明朗快活で、かつらは外したままだった。入院中、実弟の見舞いすら激怒して追い返したにもかかわらず、佐々木には面会を許し、「私は、他人のおせわになりたくない。」と話した。通常の訪問者には面会時間30分を要求し、居留守を使うこともあった一方で、心を許した男性記者とは3時間も懇談を楽しんでいた。
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