恋愛と旅行とは? わかりやすく解説

恋愛と旅行(1902-1908)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 15:28 UTC 版)

ガブリエレ・ミュンター」の記事における「恋愛と旅行(1902-1908)」の解説

1902年夏、オーバーバイエルン地方コッヘルでのカンディンスキーによる夏季講習参加ミュンター野外たくさんの風景習作制作したり、カンディンスキーとともに周辺サイクリングしたりした。1903年、ファランクス・グループの芸術学校オーバープファルツ地方のカルミュンツに移る。同年夏にはカンディンスキー夏季講習会に再び参加し風景モティーフとしたペインティング・ナイフによる油彩習作をはじめて制作した。またミュンター木版画技術において才能示した。彼女とカンディンスキーとの関係は深くなり恋愛発展し婚約にまでいたった。しかしこのときカンディンスキー法的にはまだ他の女性と結婚状態にあった。彼らの恋愛関係は、画学校の他の生徒には隠されていた。カンディンスキー一年間彼女の教師をつとめ、その後学校閉鎖したが彼はその地に留った。1911年までカンディンスキーは他の女性との結婚維持したままであったにもかかわらずミュンターはこの恋人としばしば同棲生活を送った。これは20世紀初頭におけるドイツ女性として大胆な行動だった。1904年以降彼女は幾度もとともに旅行した。これは、当時カンディンスキーは妻のアーニャ・セミヤキンとミュンヘン住んでおり、ミュンターとともに過ごすためにはミュンヘンから離れる必要があったのである1904年オランダに4週間滞在する。翌1905年初頭には数カ月チュニス旅行二人は街の中で制作にいそしんだ。このときミュンターは、カンディンスキー下図を基に真珠縫いこんだ刺繍制作している。その後二人イタリア経由して帰欧、ドイツ国内美術研究のために短期間旅行したのち、11月ラパッロ旅立ち数ヶ月滞在した。ここでも彼らは、ペインティング・ナイフ用いた風景習作大判静物画を数点描いた。1906年6月から約1年間パリ近郊セーヴル滞在。ここでミュンターデッサン教室通ったり、また後期印象主義的な油彩習作多く制作した1907年春、ミュンターサロン・デ・ザルティスト・ザンデパンダン絵画6点出品する。これは彼女にとって初めての機会であった秋にサロン・ドートンヌ木版画リノリウム版画いくつか送っている。年末から翌1908年4月まで二人ベルリン住んだこの年ケルンのサロン・レノーブレが64点のミュンター絵画作品展示、同じころボンでは彼女の全版画作品展示された。南チロルへの旅行ののち、彼らは再びミュンヘンに住むことを決めた同年の夏を二人は、画家仲間アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーマリアンネ・フォン・ヴェレフキンとともに田舎町ムルナウ過ごした。このムルナウという町はバイエルン州位置しアルプス山脈を背にした丘陵地帯佇み市が立つ、絵のようなところであった。自然の中や街に出て皆で集中的に制作行い、この地でミュンター表現主義色彩へと至る確かな一歩踏み出したヴァシリー・カンディンスキーガブリエレ・ミュンター肖像1905年ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館

※この「恋愛と旅行(1902-1908)」の解説は、「ガブリエレ・ミュンター」の解説の一部です。
「恋愛と旅行(1902-1908)」を含む「ガブリエレ・ミュンター」の記事については、「ガブリエレ・ミュンター」の概要を参照ください。

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