恋愛と旅行(1902-1908)
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「ガブリエレ・ミュンター」の記事における「恋愛と旅行(1902-1908)」の解説
1902年夏、オーバーバイエルン地方コッヘルでのカンディンスキーによる夏季講習に参加。ミュンターは野外でたくさんの風景習作を制作したり、カンディンスキーとともに周辺をサイクリングしたりした。1903年、ファランクス・グループの芸術学校はオーバープファルツ地方のカルミュンツに移る。同年夏にはカンディンスキーの夏季講習会に再び参加し、風景をモティーフとしたペインティング・ナイフによる油彩の習作をはじめて制作した。またミュンターは木版画技術においても才能を示した。彼女とカンディンスキーとの関係は深くなり恋愛に発展し、婚約にまでいたった。しかしこのときカンディンスキーは法的にはまだ他の女性と結婚状態にあった。彼らの恋愛関係は、画学校の他の生徒には隠されていた。カンディンスキーは一年間彼女の教師をつとめ、その後学校は閉鎖したが彼はその地に留った。1911年までカンディンスキーは他の女性との結婚を維持したままであったにもかかわらず、ミュンターはこの恋人としばしば同棲生活を送った。これは20世紀初頭におけるドイツの女性としては大胆な行動だった。1904年以降彼女は幾度も彼とともに旅行した。これは、当時カンディンスキーは妻のアーニャ・セミヤキンとミュンヘンに住んでおり、ミュンターとともに過ごすためにはミュンヘンから離れる必要があったのである。1904年、オランダに4週間滞在する。翌1905年初頭には数カ月チュニスへ旅行、二人は街の中で制作にいそしんだ。このときミュンターは、カンディンスキーの下図を基に真珠を縫いこんだ刺繍を制作している。その後二人はイタリアを経由して帰欧、ドイツ国内を美術研究のために短期間旅行したのち、11月にラパッロへ旅立ち数ヶ月滞在した。ここでも彼らは、ペインティング・ナイフを用いた風景の習作や大判の静物画を数点描いた。1906年6月から約1年間、パリ近郊のセーヴルに滞在。ここでミュンターはデッサン教室に通ったり、また後期印象主義的な油彩の習作を多く制作した。1907年春、ミュンターはサロン・デ・ザルティスト・ザンデパンダンに絵画を6点出品する。これは彼女にとって初めての機会であった。秋にはサロン・ドートンヌに木版画やリノリウム版画をいくつか送っている。年末から翌1908年4月まで二人はベルリンに住んだ。この年、ケルンのサロン・レノーブレが64点のミュンターの絵画作品を展示、同じころボンでは彼女の全版画作品が展示された。南チロルへの旅行ののち、彼らは再びミュンヘンに住むことを決めた。同年の夏を二人は、画家仲間のアレクセイ・フォン・ヤウレンスキー、マリアンネ・フォン・ヴェレフキンとともに田舎町ムルナウで過ごした。このムルナウという町はバイエルン州に位置し、アルプス山脈を背にした丘陵地帯に佇み市が立つ、絵のようなところであった。自然の中や街に出て皆で集中的に制作を行い、この地でミュンターは表現主義的色彩へと至る確かな一歩を踏み出した。 ヴァシリー・カンディンスキー「ガブリエレ・ミュンターの肖像」1905年,ミュンヘン市立レンバッハハウス美術館蔵
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