引退:仕事から家庭へ
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1920年、鶴子は『神々の呼吸』を最後にユニバーサルとの専属契約を終了させた。同年4月には雪洲に「一度、日本を見に行ったらいい」と勧められ、21年ぶりに日本へ一時帰国した。この時に鶴子は実母のタカと妹のスミに会っているが、スミは鶴子がアメリカに渡った時にはまだタカのおなかにいたため、これが初対面となった。鶴子はタカを連れて関西旅行に行き、さらに博多にある伯父の音二郎(1911年に死去)の墓をもうでた。日本滞在中は日活向島撮影所へ見学にも行き、その様子を記念に撮影したフィルムが所内で試写された。約2か月の滞在ののち、6月末にはアメリカへ戻った。同年9月には雪洲が会長となって、日米親善や在米日本人のアメリカ化を目的とした「一百会」が設立され、鶴子は第二副会長に就任した。 1920年前後、自分の映画会社を持つ雪洲の仕事は好調で、300人を超す従業員を抱えながら自分で映画を作り、自伝で「1日に20時間は働いた」というほど多忙な日々を送っていた。そんな中で自らも多忙をきわめていた鶴子は、このまま女優を続けていると、とても家庭が成り立たなくなると思うようになり、女優を引退して雪洲の妻としての役割に徹することを決意した。手記では、当時の心境について「雪洲の世話をするものは、わたしよりないわけです。そのわたしが、雪洲がわたしを必要とするときにそばにいないのでは!」と述べている。 その後、鶴子は雪洲主演の『黒薔薇(英語版)』(1921年)、『かげろふの命(英語版)』(1922年)に出演してはいるが、ますます排日ムードが濃くなる1922年に雪洲が撮影中に身の危険がおよぶ事件に遭遇したため、夫妻はハリウッドと決別することにした。同年6月末、鶴子は雪洲とともに再び日本へ一時帰国した。夫妻は熱狂的な歓迎を受け、東京駅では夫妻をひと目見ようと大勢の人たちが押しかけた。その一方で、雪洲は排日映画への出演で日本人から非難されていたため、不歓迎の声も上がり、約2か月間の日本滞在中は不歓迎団体や雪洲抹殺社を称する団体に付きまとわれ、常に不安と恐怖がついて回った。鶴子も雪洲の外出中、滞在先の帝国ホテルへやって来た雪洲抹殺社の組員に500円をだまし取られた。 1923年、鶴子と雪洲はフランスの映画会社から『ラ・バタイユ』(1923年)の出演依頼を受けた。鶴子はすでに女優引退の意思を固めていたが、雪洲といっしょにいれるならと出演を引き受け、7月に夫妻でフランスへ渡った。この作品は日露戦争の日本海海戦を舞台にしたメロドラマで、雪洲が主人公の日本海軍将校を演じ、鶴子はその妻を演じた。鳥海によると、鶴子は映画製作の現場に日本人の人材がいないこともあり、日本人の衣装や風俗の考証にも関与していた可能性があるという。この作品は興行的に高い成功を収め、鶴子はフランス政府に功績を称えられ、雪洲とともに芸術勲章を授けられた。 1923年10月、鶴子はフランスから一時的にロサンゼルスに戻り、グレンギャリ城の売却手続きを済ませ、翌12月には舞台出演のためロンドンへ渡った雪洲と落ち合った。夫妻は1年ほどロンドンに滞在し、その間には2本のイギリス映画に出演した。1924年末、夫妻は再びパリへ移ったが、鶴子も「非常に愉快なフランス生活」と述べているように、人種差別で不快な思いをすることもなく、優雅なパリ生活を満喫した。1925年夏には雪洲がブロードウェイの舞台に出演することになったため、夫妻でアメリカに戻り、その舞台が成功を収めてからはニューヨークに腰を落ち着けた。ヨーロッパでは映画の共演で雪洲を支えていた鶴子は、アメリカに戻ってからはひたすら家庭を守る立場に徹した。
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