幼少期-ジュニア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:25 UTC 版)
「エヴァン・ライサチェク」の記事における「幼少期-ジュニア時代」の解説
8歳からスケートを始める。アイス・カペーズ(アイスショー)の大ファンだった祖母は、ライサチェクにクリスマスプレゼントとしてスケート靴を与えた。彼はもともとアイスホッケーをやりたがっていたが、母が彼と姉をフィギュアスケート教室に入会させたため、スケートを学ぶことになった。彼はスケートに夢中になり、すぐに競技会にも出始めた。 1996年、全米ジュニア選手権ジュブナイルクラスで優勝。1997年からインタメディエイトクラスに上がると、リージョナル、セクショナルを制し、ジュニアオリンピックでも4位に入った。 1998年全米選手権ノービスクラスでは予選落ちだったが、翌1999年は13歳で優勝を果たす。さらに2000年全米選手権ジュニアクラスでも優勝。全米選手権のノービスクラスとジュニアクラスを立て続けに制した男性スケーターはテリー・クビカ以来である。 2000-2001シーズンから、ライサチェクは国際大会でも結果を出し始める。ジュニアグランプリでは2つの銀メダルを獲得し、ISUジュニアグランプリファイナルに出場。初めて出場したシニアの全米選手権では12位につけた。世界ジュニア選手権では、当初補欠の2番手だったものの、負傷により辞退したライアン・ブラッドレイの替わりに出場すると2位に入った。優勝したのはジョニー・ウィアーで、世界ジュニア選手権でアメリカの選手が同時に1位と2位に入るのは、1987年以来のことであった。 2001-2002シーズンは肋骨骨折など相次ぐ怪我に見舞われ、練習も十分にできなかった。さらに、アメリカ同時多発テロ事件が発生すると、アメリカフィギュアスケート協会はジュニアグランプリフェニックスの開催を中止、またアメリカ所属選手のジュニアグランプリ派遣も中止してしまった。これらの要因によりライサチェクはモチベーションを失ってしまい、全米選手権では12位にとどまり、世界ジュニア選手権の代表にも選ばれなかった。 それからライサチェクは食事やトレーニングを見直し、明確な目標を設定して立て直しを図った。2002-2003年シーズン、ジュニアグランプリで2つの銀メダルを獲得し、3年ぶりにジュニアグランプリファイナルに出場。全米選手権では7位まで順位を上げ、四大陸選手権でシニアの国際大会デビューを果たした。世界ジュニア選手権では、2002年大会の結果によりアメリカ男子出場枠が2枠に減っており、翌2004年大会の出場枠を3枠に増やすべく、ライサチェクともう1人の代表であるパーカー・ペニングトンに大きな期待が集まっていた。しかし、ペニングトンが棄権したため、ライサチェクの演技に全てがかかることになった。ライサチェクは予選で彼にとっては初めてとなる3回転アクセルに成功、フリースケーティングでも3回転アクセルを成功させて、銀メダルを獲得した。この結果により、翌2004年大会のアメリカ男子出場枠は3枠に広がった。 2003年に高校を卒業すると、コーチをケン・コンゲミとフランク・キャロルに変更し、練習拠点もカリフォルニア州エル・セグンドウに移した。2003-2004年シーズン、ジュニアグランプリSBC杯、クロアチア杯、ファイナルで全て優勝。全米選手権で5位に入り、四大陸選手権ではシニアの国際大会で初めてのメダルとなる銅メダルを獲得した。世界ジュニア選手権では前年と同じ2位となった。
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幼少期~ジュニア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 05:49 UTC 版)
中学校の教員で元カーリング選手にして長野オリンピックの最終候補選手に選ばれていた父(1960年生)にカーリングリンクに連れていってもらったのがきっかけで、5才からカーリングを始める。兄と姉も父の影響でカーリングを始めていた。同年代の子どもと比べ体が大きく、重さ約20kgの大人用ストーンを操れる天性の技術を既に持っていた。姉曰く、子ども時代から既に「負けん気がすごかった」という。姉と同じ、地元・北見のチーム「ステイゴールドII」でプレーするようになる。中学1年生のとき、父は「感覚よりも理論を重視する」次女(五月)の素質を見出し、姉と交代する形でチームの作戦を立てるスキップを任せるようになった。後にチームメイトになる吉田知那美は練習試合で藤澤のチームと対戦したときに「同い年と聞いたけど、私たちとは比べものにならないくらいうまかった」と思ったという。 2007年、北海道北見北斗高等学校に進学。「チーム北見(ステイゴールドII)」のスキップとして、高校1年生(2007年-2008年シーズン)、2年生(2008年-2009年シーズン)の2期連続で、日本ジュニアカーリング選手権優勝、パシフィックジュニアカーリング選手権優勝を果たし、世界ジュニアカーリング選手権に出場する。この時期の日本のジュニア勢には、すでに中学生時代に日本選手権で準優勝経験のある吉田知那美・鈴木夕湖・小野寺佳歩・吉田夕梨花の後のオリンピアン4名からなる「robins」、2008-2009年シーズンから高校生として日本選手権で2年連続準優勝を果たす吉村紗也香らの「WINS」というジュニア年代ながらすでに日本トップクラスの力を持つライバルチームが存在しており、彼女らとの競争を制しての日本ジュニア連覇であった。この時期は日本選手権こそ、日程の重なる世界ジュニア選手権への出場のために出場できなかったものの、既に「天才」の称号を欲しいままにする存在になっていた。
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幼少期~ジュニア時代
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「キミー・マイズナー」の記事における「幼少期~ジュニア時代」の解説
6歳の時に、アイスホッケーを習っていた3人の兄の影響を受けてスケートを始める。 2003-2004シーズン、全米選手権ジュニアクラス優勝。世界ジュニア選手権では初出場で銀メダルを獲得した。2004-2005シーズン、ジュニアグランプリファイナル3位。全米選手権ではシニアクラスに出場、トリプルアクセルに成功(アメリカの女子選手としてトーニャ・ハーディング以来2人目)して3位に入る。世界選手権には国際スケート連盟の定めた年齢制限のため出場できず世界ジュニア選手権に出場し4位。
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