年羹堯の「青海善後事宜」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 01:20 UTC 版)
「雍正のチベット分割」の記事における「年羹堯の「青海善後事宜」」の解説
年羹堯の「青海善後事宜」は、雍正二年五月十一日(1724年)付で提出された、グシハン一族制圧後の事後措置の報告と、チベットに対する再編案である。様々な史料に収録されているが、「文献叢書」所収の「條陳西海善後事宜摺」が、最も詳細であると思われる。以下の記述は、すべてこれによる。 構成としては、グシ・ハン一族の内紛において、当初から清朝を頼ろうとした者たち、はじめはロブサンダンジン側に加担したが、清朝の介入をみて、清朝に抵抗することなく降った者たち、清朝軍と戦い、敗北した後降伏した者たちなどに対する個別の措置の報告、グシ・ハンによる征服と再編(1642年)以来のチベットの現状報告、グシ・ハン一族がチベットに対して有していた権限、権益の接収と再分配に関する提案などからなる。雍正のチベット分割は、 年羹堯のこの再編案にもとづいて進められた。 雍正帝は、この事件より後年、雲貴総督の高其倬より、ベトナム領の都龍の銅山について、侵攻してこれを奪うことを提案する上奏があった際には、「堂々たる天朝(=清朝)が小邦と利を争うものではない」とたしなめ、却下するなど、大国としての対面にこだわる側面を有していた。このような雍正帝に、「ダライラマを擁するグシ・ハン一族」をチベットの正統の政体とみなしていた父康熙帝の方針を一変し、グシ・ハン一族の権益をすべて召し上げるという行為を受け入れさせるためのロジックとしては、チベットの国土を「ダライラマの香火之地」と「元来「内地」であった土地」に二分し、グシ・ハン一族が「不当」に占拠していた内地への支配権を回復する、という観点が打ち出された。 1720年代初頭のチベットの現状は、次のように描写されている。 (年自身の手でグシ・ハン一族を制圧したのち、四川、雲南から西進させた文武官を通じカム地方の諸侯を降伏させ、もしくは降伏勧告を行っていることについて)あるいは無知な者はこの措置に疑念を呈し、ダライラマが所有する地方ではないかと考えるかもしれない。調べてみるに、西海(青海)、バルカム(巴爾喀木)、ウー(衛)、ツァン(蔵)はタングートの四大部落である。グシ・ハンはその凶暴を逞しくしてその地を全て所有し、西海の地面が広くなだらかで遊牧に便利であり、カムは住民が密集し、食料が豊富であるので、この両所を子孫に分属させた。そのようなわけで、彼らは西海に住んで遊牧し、ロロンゾン(洛籠宗)以東のカムの地は、すべて西海の諸王、諸タイジに貢物を納めるのである。ロロンゾン以西のウー、ツァンの両所は、昔はダライラマとパンチェンラマに布施され、「香火之地」となっていた。ここから、ロロンゾン以東のバルカム一帯は、西海蒙古の所有であったことがわかる。 — 「條陳西海善後事宜摺」 上引部に続けて、チベットの再編案として、次のように述べる。 今、西海が反逆したからこれ(バルカム)を取りあげ、四川と雲南に分属させるべきことに疑いの余地はない。「数十万の「番」民を、水、火の中から救い出し、クッションの上に座らせる」ということばは、まさに文字づら通りの意味であって、決してダライラマの「香火田地」を奪い取るのではないのだ。 — 「條陳西海善後事宜摺」 アムド、カムのチベット人に対するグシ・ハン一族の支配下については、次の様に描写されている。 調べてみるに、グシ・ハンの子孫による西海(=青海)の占拠は、いまだ百年に及ばない。しかしながら、西番で陝西にいる者は東北は甘州、涼州から西南は河州、荘浪に及ぶ。四川の松潘、打箭爐、リタン(理塘)、バタン(巴塘)と雲南の中甸等とにおよぶ地域の、辺境に沿った数千里は、昔から今まで、西番が住み、遊牧して来た。西番のなかには黒番あり、黄番あり、生番あり、熟番があり、種類はことなっているが、代々、土着してきており、移ってきたのではない。元来は、西海蒙古の所属ではなく、実は我が藩属なのである。明末以来、彼らに対する統制を失い、ある者たちはラマの佃戸となり、ある者たちは西海に貢納し、何年にもわたり役属してきた。西海のウシ、ヒツジ、ロバは、これを番より取り立てる。ムギ、マメ、青稞はこれを番より取り立てる。力役、徴調もこれを番より取り立てる。番が内地に居ながら、税を蒙古に納める。ここに道理があるだろうか? ロブサンダンジンが背いたときには、西番たちは呼応して蜂起し、はっきりと官兵(=清朝軍)に敵対した。(彼らは、自身の主として)蒙古があると知っているにとどまり、鎮、営があることを知らず、庁、衛があることを知らない。このような状態は、短期実にできあがったものではない。 — 「條陳西海善後事宜摺」 前節でみたとおり、元朝の万戸制、明朝の衛所制による冊封体制のいずれも、中央チベット(ウー、ツァン)と東部チベット(アムド、カム)に「内地とそれ以外」という区分をもたらすものではなかった。しかし、清朝の君主たちは、清初以来、チベットやモンゴルなど、チベット仏教圏の民に対しては、文殊皇帝として、ダライラマを擁する姿勢を示し続けており、「小邦」と利など争わぬ「天朝の主」として、また「文殊皇帝」として、ダライラマの権益を侵害しうる立場にはなかった。チベットの国土に対する、「ダライラマの香火之地」と「内地」という二分割は、康熙帝の対チベット方針を覆し、グシ・ハン一族の権益を剥奪して我がものにすることを正当化するロジックとして、この時に創始されたものである。
※この「年羹堯の「青海善後事宜」」の解説は、「雍正のチベット分割」の解説の一部です。
「年羹堯の「青海善後事宜」」を含む「雍正のチベット分割」の記事については、「雍正のチベット分割」の概要を参照ください。
- 年羹堯の「青海善後事宜」のページへのリンク