カム地方の3分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 01:20 UTC 版)
「雍正のチベット分割」の記事における「カム地方の3分割」の解説
年羹堯の『青海善後事宜』は、カム地方を「西蔵」と「四川」の間で二分するよう提案するものであったが、実際には「ダライ・ラマ所管地方」と四川、雲南の三地方に分配されることとなった。 『清実録』雍正三年十一月乙未(1725年)の条には、川陝総督岳鍾琪からのより詳細な分割案と、議政王大臣らによる検討、雍正帝から得た旨(コメント)がまとめて記載されている。岳鍾琪による分割案の内容は以下のとおり。 ダルツェド(現康定)の境界より奥のリタン・バタン・ダクヤプ・チャムド、雲南の中甸(ギャルタン、現シャングリラ)、チャムドの奥のロロン・ゾン・ツァワゾガン・サンガーチューゾン・コンジョ等の部落は、「ダライ・ラマ所管地方」ではないとはいえ、しかしながら、ロロン・ゾンはタルツェドから非常に離れており、もし「内地」に併合しても、コントロールが難しい。昔「内地」土司であった中甸、リタン、バタン、また「内地」付近のデルゲ、ワシュル・ホルなどの地方は、ともに「内地」に帰属させ、「頭目」を選び、土司の職と関連グッズを授け、その地を管理させるべきである。ロロン・ゾン等の部落については、どうかダライラマに「賞給」して管理させ、特に大臣を派遣し、ダライラマに賞給する各部落について、ダライ・ラマに「暁諭」し、知悉させるよう、願いたてまつります。 — 『清実録』雍正三年十一月乙未条 ここでは、グシハン一族の属領であったロロン・ゾン以東の地のうち、ディチュ河以西の地をダライ・ラマに賞給すること、ディチュ河以東の地を内地に帰属させるよう、提案されている。議政王大臣らはこれに「提案のとおり実施すべきである」とのコメントをつけて雍正帝の裁可を仰いだ。雍正帝による回答は次のとおり。 内地の疆界を画定し、ダライ・ラマに給与する地方を「番人」(チベット人)たちに「暁諭」することは、副都統・宗室のオチ、学士バンディ、ザサク大ラマ・ゲレクチョルジらを使わして、提督周瑛と合同で、詳細に処理させるべきである。 — 『清実録』雍正三年十一月乙未条 「詳細な処理」の内容について、『西蔵記』「疆圉」の項は、雍正三年(1725年)の記事として、次の様にのべる。 雍正三年、松潘鎮総兵官周瑛が疆址を勘定した。初めて南墩、寧静山の嶺上を境界と定め、あわせて分界碑を立てた。嶺の東バタンは四川に属する。嶺の西は西蔵に属する。その宗吽察卡、中甸は雲南に属する。三處の疆界が初めて分けられた。 — 『西蔵記』「疆圉」雍正三年
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