カム反乱・チベット動乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 15:01 UTC 版)
「チュシ・ガンドゥク」の記事における「カム反乱・チベット動乱」の解説
ダライ・ラマは平和主義の精神から武力行使を容認できず、また失敗すると信じていたために1957年にダムポ・タシの支援を断っている。 チュシ・ガンドゥクは1957年4月にラサで、ダライ・ラマを守護する時がきたときに中国人民解放軍に挑む攻勢作戦か、それともチベット各地でゲリラ活動を続ける防勢作戦かを仏前のくじ引きで選び、前者と決まった。ゴムポ・タシの指揮下に「国民志願防衛軍」が組織され、インドから多くの装備を調達したが、それでも物資の不足は深刻であった。しかし1957年初頭には、国民志願防衛軍が攻勢をしかけ、中国人民解放軍の前哨地点を襲撃して圧倒していた。 チュシ・ガンドゥクはゲリラ軍であり、部隊の細かい動きはゴンボ・タシでさえ分からなかった。時にはチベット民衆から略奪を働くことさえあったが、そのような部隊は容赦なく射殺された。人民解放軍がチュシ・ガンドゥクにスパイを送り込むこともあったが、すぐに発覚して処刑された。 1958年末に中国は、中央チベットのラサやシガツェに住む東チベット人に対して故郷に戻るよう布告を出し、従わないものは強制送還した。中国はダライ・ラマ14世にも反乱軍を鎮圧するよう命令したが、下手にガンデンポタンの正規兵を派遣すると、ゲリラ組織に合流する危険性が高かったため、ダライ・ラマ14世はこれを断っている。 事態の悪化につれてチベットの民衆の間では、ダライ・ラマ14世が中国に拉致されるという噂が流れ、ついに1959年3月10日、1959年のチベット蜂起を呼ぶこととなり、ダライ・ラマ14世が中国人民解放軍の目を逃れてインド国境に向けてラサを脱出すると、中国人民解放軍は3月24日にラサを攻撃して多くのチベット仏教寺院が破壊され、これに反発してチベット人の一部が武装して反乱を起こした。この反乱はチベットの正月と祭典で人が多かったことから2万5000名の僧侶が拘束された。
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