市立図書館の開館
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1916年(大正5年)、大正天皇即位に伴う御大礼記念事業が日本全国に発令された。函館では岡田ら有志による私立図書館に代って公立図書館を作る動きが開始され、岡田のもとへは私立図書館の蔵書をそのまま公立図書館へ寄贈するよう申し入れがあった。岡田側は新図書館を耐火構造で建築することを条件として、それに応じた。しかし函館区側では、鉄筋ではなく木造での新図書館建造が計画されていた。 鉄筋書庫に次いで鉄筋の図書館本館を目指していた岡田にとって、この函館区の方針は納得できるものではなかった。木造の建築計画を鉄筋に覆すためには自ら行政に直接介入するしかないと考えた岡田は、議員選挙への出馬を決意した。市政制定により函館区が函館市となった1922年(大正11年)、在職のまま市会議員に立候補。函館のための鉄筋図書館建造を公約に掲げた岡田は、区民たちからの大きな支持を得、当選に至った。 市会(現在の市議会)で岡田は、木造図書館を支持する市会に対し、鉄筋図書館の重要性を説き続けた。しかし両者の意見は平行線を辿るばかりで一向に交わることはなく、その状態は実に10年に及んだ。市会の圧力により、一時は200人以上いた私立図書館の維持会員も、わずか7人にまで減り、岡田家の苦難はさらに増した。衆議院議員でもある前述の平出喜三郎は、この膠着状態を重く見て仲介に入り、岡田を説得し、鉄筋図書館の建築を岡田に約束した。この際には宮崎郁雨も、平出からの依頼により岡田の説得にあたった。岡田は公私にわたって自分を支えてくれた平出を信じ、図書館問題を彼に託した。折しも大正天皇の病状が思わしくなかったことから、平出がこれを引合いに出し、「大正天皇の記念事業として始められた公立図書館設立は天皇の存命中に着手するべき」と主張したことで、この膠着状態は解決に至った。 平出の尽力や先述の小熊幸一郎の多額の寄付のもと、1928年(昭和3年)、函館市立函館図書館(後の函館市中央図書館)が完成した。岡田と交わした平出の約束は守られ、本館は岡田待望の鉄筋コンクリート構造の3階建であった。私立図書館の資産は約3万冊の蔵書をはじめ、すべてが市立図書館へ寄付された。この蔵書の中には日本で1冊しかない古書が何千冊も含まれており、平成期の金額に換算すれば少なくとも数十億円との声もある。 岡田は新技術の導入にも熱心であり、平成期の日本の図書館で広く用いられている日本十進分類法(NDC)がこの時期に発表され、1929年(昭和4年)に間宮書店より単行本『日本十進分類法』として刊行されると、ただちに注文した。さらに目録ケースの横にNDC索引部分を置くことで、利用者の利便性を高めるよう工夫を凝らし、間宮書店の間宮不二雄を唸らせた。また、本1冊につき1枚の基本カードを作成し、この複製によって目録を編成するユニットカードシステムを採用した。間宮不二雄は「ユニット・カードは恐らく同館が、わが国では最も早い実施館であったろう」と述べている。 岡田を館長に推す市民たちの声が市政に届いたことで、1930年(昭和5年)には岡田は館長に就任した。市会議員には1926年(大正15年)に再当選していたが、図書館業務専念のため、館長就任の同年に市会を引退した。図書館に隣接して岡田の公宅も設けられたが、岡田はその後も図書館内にベッドを持ち込んで1人で住み込み、妻イネに食事を運ばせて生活し続けた。 私立図書館開館前に入会した日本図書館協会では、1931年(昭和6年)に評議員に初当選。協会における特異な存在として重要視され、終生にわたって図書館事業と協会の発展に尽くした。 函館市の文化向上のために尽くした功績により、1939年(昭和14年)には高等官七等待遇となり、従七位に叙せられた。翌1940年(昭和15年)には社会教育事業功労者として文部大臣からの表彰を受けた。1942年(昭和17年)には高等官六等待遇となり、正七位に叙せられた。
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