市役所分室時代(1946年 - 1972年)
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「半田市立図書館」の記事における「市役所分室時代(1946年 - 1972年)」の解説
太平洋戦争後に生じた図書館教育を重視する風潮の中で、1946年(昭和21年)11月11日、半田市内にある4図書館が半田市立図書館として統合され、国鉄半田駅西側の北末広町6にあった半田市役所分室(旧・知多木綿組合事務所)に設置された。初代館長には愛知県からの辞令により間瀬勘作が就任している。職員は間瀬を含めて4-5人であり、うち半田市教育委員会事務局との兼任者が1人いた。近代的な鉄筋コンクリート造2階建の本館、木造平屋建の閉架書庫からなっていた。 1946年度の蔵書数は16,064冊であり、利用者数は約23,000人だった。開館時の閲覧料は1円であり、児童は50銭だった。1947年(昭和22年)9月1日には閲覧料を2円に値上げする一方で、児童は閲覧料を無料とした。1948年(昭和23年)3月9日には閲覧回数券(15枚つづり25円)を発行した。 1949年(昭和24年)1月には図書館外貸出を開始しており、この当時の年間貸出冊数は7,000冊強だった。1階には貸出受付カウンター、児童書開架、参考図書、一般書閉架があり、館外貸出ができる一般書はすべて閉架で職員が出納を行う仕組みとなっていた。2階は閲覧室であり、試験期間中は高校生などで満席の状態だった。この閲覧室では読書会や講演会なども開催されている。 1950年(昭和25年)4月30日に図書館法が交付されると、同年6月14日には図書館設置に関する条例を制定し、児童・生徒・学生の閲覧を無料とした。1951年(昭和26年)4月1日には館内閲覧料を完全に無料とし、5日以内なら館外閲覧も無料とした。館外貸出は1回1冊までであり、延滞金は1日あたり5円だった。1951年時点の利用者は男性が61,390人(70.5%)、女性が25,736人(29.5%)であり、職業別では学生が41,946人(48.1%)、無職が10,653人(12.2%)、児童が9,448人(10.9%)、会社員が8,905人(10.2%)などだった。1952年(昭和27年)には休館日を月曜日から水曜日に変更した。 1956年(昭和31年)5月には児童図書の館外貸出を開始し、5月22日には第1回女性読書会を開催している。同年11月10日には開館10周年を記念して、利用者による座談会を開催した。1957年(昭和32年)10月1日から3日には半田市制20周年を記念して、半田市文化人遺品展を開催した。1959年(昭和34年)5月4日には貸出期間が10日間に延ばされた。 開館当初の貸出方式は貸出簿に記入する記帳式だったが、やがて伝票に記入する伝票式に変更された。1951年度の蔵書数は23238冊、1956年度の蔵書数は29,246冊、1961年度の蔵書数は32,287冊、1966年度の蔵書数は41,250冊、1971年度の蔵書数は51,130冊と増えていった。図書館では映画会や講演会はもちろん読書会や紙芝居会も開催し、自転車による巡回文庫(移動図書館)も行った。館長は専任館長が置かれる場合と、教育委員会事務局の課長が館長を兼任する場合が交互に続いたが、1970年(昭和45年)からは常に専任館長が置かれている。 市役所分室は大正時代の建物であるためエアコンは設置されておらず、夏季は扇風機、冬季は石油ストーブで冷暖房を行っていた。また、蔵書数や利用者数の増加で市役所分室が手狭になったが、建物は半田市の所有物である者の土地は借地であることから、現在地での新築ではなく移転の方向性が出されたが、財政状況が芳しくなかったことから新館の建設は時期尚早とされた。
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