市役所付属建物時代(1931-1944)
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「一宮市立図書館」の記事における「市役所付属建物時代(1931-1944)」の解説
1886年(明治19年)には官設鉄道の駅として一ノ宮駅(現・尾張一宮駅)が開業し、1900年(明治33年)には尾西鉄道の駅として一ノ宮駅(現・名鉄一宮駅)が開業した。1928年(昭和3年)には名古屋鉄道の線路が一宮市と名古屋市を結び、1935年(昭和10年)には名鉄の線路が一宮市と岐阜市を結んだ。官設鉄道の路線と合わせて、一宮市は尾張地方の交通の中心となり、1940年(昭和15年)の人口は70,792人となっている。 1931年(昭和6年)8月15日には一宮市役所が人形町の新庁舎に移転し、図書館は一宮高等女学校内から市庁舎附属建物の一部に移転した。この時に新築された一宮市役所は「東海随一」と称された市庁舎である。図書館の間口は3間(約5.5m)、奥行は12-13間(約22-24m)であり、閲覧室、児童室、事務室の3部屋に区切られていた。移転を機に、8月12日には市立一宮図書館から一宮市立図書館に改称している。一宮市役所第三課長(学務担当)の柴田暢が館長に就任、移転時の蔵書数は2,614冊だった。司書1人を含む5人が館長を支えたが、薄給だったために頻繁に転退職があった。移転後にはしばしば著名人の講演会を開催し、また第八高等学校(現・名古屋大学)教授である上田年夫を講師として万葉集の講座を開催した。 移転した1931年の閲覧人数は1日平均大人49.6人、児童101.1人だったが、1940年には1日平均大人90.7人、児童99.5人に増加した。大人の閲覧者は新聞や雑誌を閲覧する場合がほとんどであり、その他には小説が読まれる程度だった。入館者の大半は中等学校の生徒、その他には市役所職員も多く、昼時には建物に近い駄菓子屋が繁盛したという。後に一宮市長となる伊藤一は、当時の一宮市立図書館に対して「読みたい本が全然ない貧弱さに呆れて、再び館を訪れることがなかった」と語っている。1934年(昭和9年)には市民からブリタニカ百科事典が寄贈されたが、当時はブリタニカ百科事典を所蔵する公共図書館は珍しかったという。1937年(昭和12年)以降には真清田神社の楼門前西寄りの市有地に移転する計画が立てられたが、この場所は商売上の好立地であるために用地買収が難航し、結局は太平洋戦争の影響で立ち消えとなっている。 太平洋戦争勃発後には予算が削減される図書館が多かったが、一宮市立図書館は比較的厚遇された。1939年(昭和14年)の予算は約2,500円だったものの、1943年(昭和18年)の予算は5,883円、1944年(昭和19年)の予算は7,054円と、物価上昇に合わせて増額された。蔵書数は1936年(昭和11年)に6,896冊、1943年には1万冊を突破して12,537冊となった。1942年(昭和17年)には柴田館長が市役所第三課から転任したため、医学博士でもあった一宮市長の吉田萬次が兼任館長に就任した。
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