川崎造船所の躍進と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 08:59 UTC 版)
「松方幸次郎」の記事における「川崎造船所の躍進と挫折」の解説
幸次郎が船頭に就いた川崎造船所は、川崎正蔵の計画していた乾ドックの建設を皮切りに「攻めの経営」を展開し、折からの国家的規模の造船国産化の追い風もあり業績を順調に伸ばした。また1894年(明治27年)の日清戦争、1900年(明治33年)の北清事変、1904年(明治37年)の日露戦争の勃発により国家的規模で軍備強化が推進される中、呉の海軍工廠に労働者を派遣し造艦技術を学ばせ、また呉に近い宇品には出張所を設け、海軍との交流を深めて海軍からも造艦の受注を受けるようになった。当初は小型艦艇の組み立てや修理を請け負ったが、やがて大型艦の造船も請け負い、川崎造船所は民間では三菱造船とならぶ軍艦造船会社にまで成長した。 1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発。本来、造船業は受注生産が基本だが、世界的な商船不足を予見した幸次郎は、受注前にあらかじめ船を大量生産する「ストックボート方式」を用いて莫大な利益を上げた。しかし、1918年(大正7年)に第一次世界大戦が終戦し、ヨーロッパの造船界が再稼働して世界の船舶需要が供給過多に転じたことにより、大量の在庫を抱えることになる。また、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約締結では軍縮による軍艦建造縮小の煽りを受け、さらに1927年(昭和2年)の金融恐慌を決定打に川崎造船所は事実上の破綻を喫する。幸次郎は不況の中でも積極策を続けたが、設立した商船会社も利益を生まなかった。金融恐慌では多くの銀行が取り付け騒ぎで休業に追い込まれ、川崎造船所に巨額の融資を行っていた兄の松方巌が頭取を務める十五銀行も1927年4月には休業を余儀なくされていた。関係が強く、大口債権者であった軍部の支援によって川崎造船所の倒産は免れたものの、幸次郎は不況下で積極経営を強行した責任を取り、務めていた全ての会社の役員を辞任する。その後は衆議院議員を1936年(昭和11年)から連続3期務め、国民使節として渡米し国際的に活動した。戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった。追放中の1950年(昭和25年)死去。
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