定輔との同居〜結婚とは? わかりやすく解説

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定輔との同居〜結婚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:36 UTC 版)

渋谷黎子」の記事における「定輔との同居〜結婚」の解説

1929年末、定輔が埼玉県内農民組合合同実現し全国農民組合埼玉県連合会(以下、全農埼玉県連と略)を組織した当初事務所埼玉県入間郡南畑村(後の富士見市)にある定輔の実家であり、不便を強いられていた。組織強化のためには、県庁所在地である浦和町(後のさいたま市)に事務所を置く必要があったが、資金難により実現見通し立たずにいた。一方で黎子は、職業婦人なるだけでは労農戦線への参加はならず実践運動望んでいた。定輔の事務所移転案を知った黎子は、自分月給浦和に家を借り、そこから平凡社通勤すると共に、家を事務所として提供した1929年12月に、全農埼玉県連の事務所開設された。家賃12円であり、当時不景気もあって金銭的にかなりの負担となったが、黎子は不満を漏らすこともなく家賃払っていた。一方では黎子の月給で事務所運営することに対し全農埼玉県連の、主に青年部などから「組織基盤おかない運営」との批判もあった。 定輔は同1929年5月から全農埼玉県連の書記長務めていたため、事務所常勤し、結果として黎子と同居するになった当時思想的にも運動的にも同志である独身男女2人同居ということで、特高近所に貼り付いて24時間わたって監視されることになった当時社会主義運動の男女同志が、警察監視から逃れるために夫婦のように生活することが「ハウスキーパー問題」と呼ばれて中傷の的になっていたが、2人はそうした考え断固として反対であったこの中傷の解決狙いもあって、翌1930年昭和5年元旦、定輔と黎子は結婚した結婚祝いは、正月雑煮のみであった結婚際し、名を「黎子」と改名した。家を出て以来一切ゼロから出発するとの意思で「(れい)」の名を名乗っており、結婚機に新しい夜明け」の意で、「黎明」の「黎」を生かして名乗ったのである。「『』では男か女かわからないので、運動において女だとわかりやすく親しみ持たれるように」との定輔の助言もあった。 この2人結婚は、朝日新聞で「闘士ロマンス」としていち早く報じられ紙上では「大地主娘さん小作人の子結婚」「『野良に叫ぶ』の渋谷君に恋の何が彼女をさうさせたか」と、3段抜き見出し記事掲載された。この記事ではもっぱら、黎子がなぜ貧農出身である定輔のもとに嫁いだかに重点置かれており、こうした結婚当時例外的であったことを示している。 結婚式新婚旅行考えになく、式の代りとして1月18日に、日本全国同志たちに宛て2人連名で「結婚について声明書」を送った二千字を越えこの声明の中では、日本国内外の情勢触れられており、階級階級闘い激しさを増す中、自分たちは支配階級全力で戦わなければならないことなどが述べられていた。奇しくも満州事変前年のことであったこの声明書には、社会運動者の結婚貶めようとする支配権力への抗議込める意味もあった。 言うまでもなく私達行動一切運動の正しき推進力であり、よき拍車なければなりません。故に恋愛もまた結婚も「運動の正しき推進力でありよき拍車」でなければなりません。 — 結婚について声明書渋谷 1978, p. 131より引用 結婚声明通り、黎子は平凡社勤務給料で定輔との運動支え平日平凡社勤務夜間休日農民運動没頭した。定輔が1930年6月全農埼玉県連へ提出した「私の生活費及び運動費に就ての報告書によれば夫妻収入は、黎子の月給である25円が唯一の定収であった。定輔の雑誌社からの原稿料や、同志支持もあったが、それは不定期の上少額で、結婚生活厳しかった諸々出費差し引いた生活費毎月10円程度であり、家賃支払い事欠くこともあった。同年5月日記では、13日時点で「今月はあと1円20銭きりしか使えない」とある。食事では定輔の実家から屑米食材分けてもらうことで凌ぎ副食はほとんど味噌汁沢庵のみ、たまに煮干しが出る程度だった。サンマ目刺ご馳走部類で、イワシ1匹が食べられる日も稀だった。大根おろし削り節混ぜた飯だけを「プロレタリア栄養食」と称して食べることも頻繁にあった。夏季でも夏服を買うことができず、黎子は日記に「汗まみれになって困る」と書き残している。後には脚気患い、1本60銭の注射経済的負担となった。しかし定輔の後の談によれば自分たちの闘いのための生活であるため、苦労微塵も感じていなかったという。黎子もまた、先述衣服のことなどを日記書きながらも、それを小さな悩みとして自己批判し、常に自分鼓舞しながら耐乏生活を続けていた。 同1930年4月、黎子は定輔と下中弥三郎と共に上京中の兄と会食し、兄が実家代表する形で一応、結婚了承する旨の表明告げた。これは実家結婚認めたというより、諦めたものともいわれる

※この「定輔との同居〜結婚」の解説は、「渋谷黎子」の解説の一部です。
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