定輔との同居〜結婚
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1929年末、定輔が埼玉県内の農民組合の合同を実現し、全国農民組合埼玉県連合会(以下、全農埼玉県連と略)を組織した。当初の事務所は埼玉県入間郡南畑村(後の富士見市)にある定輔の実家であり、不便を強いられていた。組織強化のためには、県庁所在地である浦和町(後のさいたま市)に事務所を置く必要があったが、資金難により実現の見通しが立たずにいた。一方で黎子は、職業婦人になるだけでは労農戦線への参加にはならず、実践運動を望んでいた。定輔の事務所移転案を知った黎子は、自分の月給で浦和に家を借り、そこから平凡社へ通勤すると共に、家を事務所として提供した。 1929年12月に、全農埼玉県連の事務所が開設された。家賃は12円であり、当時は不景気もあって金銭的にかなりの負担となったが、黎子は不満を漏らすこともなく家賃を払っていた。一方では黎子の月給で事務所を運営することに対し、全農埼玉県連の、主に青年部などから「組織に基盤をおかない運営」との批判もあった。 定輔は同1929年5月から全農埼玉県連の書記長を務めていたため、事務所に常勤し、結果として黎子と同居する形になった。当時、思想的にも運動的にも同志である独身男女2人が同居ということで、特高が近所に貼り付いて24時間にわたって監視されることになった。 当時、社会主義運動の男女の同志が、警察の監視から逃れるために夫婦のように生活することが「ハウスキーパー問題」と呼ばれて中傷の的になっていたが、2人はそうした考えは断固として反対であった。この中傷の解決の狙いもあって、翌1930年(昭和5年)元旦、定輔と黎子は結婚した。結婚の祝いは、正月の雑煮のみであった。 結婚に際し、名を「黎子」と改名した。家を出て以来、一切をゼロから出発するとの意思で「零(れい)」の名を名乗っており、結婚を機に「新しい夜明け」の意で、「黎明」の「黎」を生かして名乗ったものである。「『零』では男か女かわからないので、運動において女だとわかりやすく、親しみを持たれるように」との定輔の助言もあった。 この2人の結婚は、朝日新聞で「闘士のロマンス」としていち早く報じられ、紙上では「大地主の娘さんが小作人の子と結婚」「『野良に叫ぶ』の渋谷君に恋の華、何が彼女をさうさせたか」と、3段抜きの見出しの記事が掲載された。この記事ではもっぱら、黎子がなぜ貧農出身である定輔のもとに嫁いだかに重点を置かれており、こうした結婚が当時は例外的であったことを示している。 結婚式も新婚旅行も考えになく、式の代りとして1月18日に、日本全国の同志たちに宛て、2人連名で「結婚についての声明書」を送った。二千字を越えるこの声明の中では、日本国内外の情勢に触れられており、階級対階級の闘いが激しさを増す中、自分たちは支配階級と全力で戦わなければならないことなどが述べられていた。奇しくも満州事変の前年のことであった。この声明書には、社会運動者の結婚を貶めようとする支配権力への抗議を込める意味もあった。 言うまでもなく、私達の行動の一切は運動の正しき推進力であり、よき拍車でなければなりません。故に恋愛もまた結婚も「運動の正しき推進力でありよき拍車」でなければなりません。 — 結婚についての声明書、渋谷 1978, p. 131より引用 結婚声明通り、黎子は平凡社勤務の給料で定輔との運動を支え、平日は平凡社へ勤務、夜間と休日は農民運動に没頭した。定輔が1930年6月に全農埼玉県連へ提出した「私の生活費及び運動費に就ての報告書」によれば、夫妻の収入は、黎子の月給である25円が唯一の定収であった。定輔の雑誌社からの原稿料や、同志の支持もあったが、それは不定期の上に少額で、結婚生活は厳しかった。諸々の出費を差し引いた生活費は毎月10円程度であり、家賃の支払いに事欠くこともあった。同年5月の日記では、13日の時点で「今月はあと1円20銭きりしか使えない」とある。食事では定輔の実家から屑米や食材を分けてもらうことで凌ぎ、副食はほとんど味噌汁と沢庵のみ、たまに煮干しが出る程度だった。サンマや目刺がご馳走の部類で、イワシ1匹が食べられる日も稀だった。大根おろしと削り節を混ぜた飯だけを「プロレタリア栄養食」と称して食べることも頻繁にあった。夏季でも夏服を買うことができず、黎子は日記に「汗まみれになって困る」と書き残している。後には脚気を患い、1本60銭の注射も経済的負担となった。しかし定輔の後の談によれば、自分たちの闘いのための生活であるため、苦労は微塵も感じていなかったという。黎子もまた、先述の衣服のことなどを日記に書きながらも、それを小さな悩みとして自己批判し、常に自分を鼓舞しながら耐乏生活を続けていた。 同1930年4月、黎子は定輔と下中弥三郎と共に、上京中の兄と会食し、兄が実家を代表する形で一応、結婚を了承する旨の表明を告げた。これは実家が結婚を認めたというより、諦めたものともいわれる。
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