女性と商人文化
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日本において女性商人の登場は平安時代後期よりみられ(後述書 p.158)、『本朝無題詩』には「売炭女(すみうるおんな)」や「売物女(ものをうるおんな)」の記述がみられ(大原女も参照)、後代『七十一番職人歌合』では多くの女性職人が描かれることとなる。南北期から室町時代に多くの女性職人が現れることについて、永原慶二・脇田晴子は、社会的分業の発展に伴う女性の小売業への進出を挙げ、「既成の体制的な活動の場を、男性支配者に抑えられた女性が、新しく台頭してきた商品経済活動を担った」ものと捉えている(網野善彦 『日本論の視座 列島の社会と国家』 小学館 2004年 p.133)。また川田順造はアフリカのモシ人の市の「女の領域」にふれ、「市という空間、特に女性の領域では、日常生活空間での男性上位の構造は解体されている」と説く(同書 p.133)。魚売の商人も女性が多く(同書 p.160)、存在を確認しうる例では、近江国粟津橋橋本供御人が、建久4年(1192年)に京の六角町に四宇の売買屋=店棚をもつことが認められている(同書 p.160)。嘉元4年(1306年)9月、代官国近の不法を訴えた供御人に対し、蔵人所が発給した牒には、「四宇供御人等は、皆女商人なり」と記されていることからもわかる(同書 p.160)。この他、唐粉やコンニャクなどの精進物を扱う商人も女性が多かったと見られており、鎌倉時代には確認される(同書 p161)。こうした女性商人の記述は、文献上、室町期以降は減少していくとされ、洛中洛外図屏風に描かれた諸種の店棚においては、男性の補助者として女性が描かれている割合が多い(同書 p.163)。近世期に活躍した女性商人としては三井殊法(殊宝)がいる(三井家も参照)。また三井家は近代期に広岡浅子も出している。 男子禁制の大奥では七つ口という窓口を通じて買い付けを行ったが、上級女中が暮らす長局(ながつぼね)には、商婆々(あきないばば)という女商人が出入りし、年に一度露店を出し、呉服・タバコ入れ・金平糖などを売っていた。 近世期は客寄せとして、見世(店)女=看板女が人材として扱われ、17世紀末成立の浮世草子『好色一代女』から記述が見られる(『角川古語辞典 改訂版』 改訂148版 p.983)。近世期の女性商人は強引な客引きもし、歌川国芳の『山海名産尽』には、「信州名物二十六」蕎麦屋の看板の下で旅人の襟をつかんで店に引き入れようとする女性とそれに抵抗する男の様が描かれている(本田豊 『絵が語る知らなかった江戸のくらし 農山漁民の巻』 遊子館 2009年 p.208.絵図、p.209.下駄をはいているため、女性は旅人ではなく、商魂たくましい女性を描いた一コマであるとする。)。また近世期では庶民の識字能力向上にともない、商家の下女も勉強するようになっており、「うつぶいて筆で艪を押す夜手習い」という川柳も詠まれている(深谷克己 『江戸時代 日本の歴史6』 岩波ジュニア新書 2000年 ISBN 4-00-500336-2 p.156)。こうした商家で働く下女・丁稚にも藪入りと呼ばれる休日は存在した。 女性商人を卑しむ考え方はその初期(江戸期以前)より見られ、平安末期成立の『今昔物語集』巻第二十八には、舎人の茨田重方が自分の妻を酷評した言葉として、「顔は猿のようで、心は物売り女と同じ」という表現からもみられる。 フランスなどの欧米諸国ではヴィヴァンディエールという女性の従軍商隊が存在した。
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