大連立政権の外相
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「ヴィリー・ブラント」の記事における「大連立政権の外相」の解説
二大政党による連立政権は1960年代前半から社会民主党首脳部が描いていた構想であった。階級政党から国民政党に脱皮して政権担当能力を高めるためにキリスト教民主同盟・社会同盟との政策協議は続けられていて、キリスト教民主同盟・社会同盟もこの間に小政党である自由民主党に振り回されて嫌気がさしており、この際に社会民主党とで選挙制度改革を進めて、イギリス流の二大政党制を目指したいという思惑もあった。また大連立政権で議会で絶対多数を確保し、噴出してきた諸問題に対処しようとする狙いもあった。 このキージンガー政権ではキージンガー首相は1933年から終戦までナチ党員であり、ゲアハルト・シュレーダー国防相は元ナチ党員で(一時突撃隊に在籍)で1941年に脱党した人間であり、フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス財務相は第二次大戦の前線将校でバイエルン州の地域政党であるキリスト教社会同盟党首であった。一方社会民主党から入閣したブラントとヘルベルト・ヴェーナー全ドイツ問題相は左派社会主義者か共産主義者で亡命暮らしを経験していた。哲学者カール・ヤスパースは当時「内面での敵対意識が払拭されることはなく、ただ押し隠しているしかない。ブラントは囚われ人のように見えた」と語っていた。大連立政権では経済と財政の領域では一定の成果を挙げたが、激しい論議となったのは緊急事態法で当時1968年の学生反乱で国内の民主主義的な体制秩序を内側から危険に晒されるのを防ぐ目的で立案されたもので、1968年5月に連邦議会で可決された。社会民主党議員団でも多くのメンバーがこの法案に反対したが、ヘルムート・シュミットがうまくまとめた。この時期にはかつてのブラントとノイマンではなく、ヴエーナーとシュミットとブラントの3人体制が社会民主党の中で固まりつつあった。 キージンガー政権の外相となったブラントは東欧諸国との国交樹立政策を推進し、1967年1月にルーマニア、1968年1月にユーゴスラビアとの間で国交樹立に成功した。ここまで西ドイツ外交の基本原理であったハルシュタイン・ドクトリンはこうして破棄された。これはソ連を除いて東ドイツを認める国とは国交を開かないという原則であり、キリスト教民主同盟・社会同盟は東ドイツを正式な国家とは認めていなかった。一方、社会民主党は「2つのドイツ」を承認しない限りドイツの安全は得られないとする考え方であった。1968年のプラハの春へのソ連の武力介入でキージンガーはこれ以上の東方接近を拒否した。社会民主党とキリスト教民主・社会同盟の間の溝が広がり、その間に割り込んで自由民主党が社会民主党の外交路線に明確な支持を与えた。1969年3月の大統領選挙では自由民主党は社会民主党から立候補したハイネマンを支援して当選させた。 そして1969年9月の第6回連邦議会選挙は、社会民主党(SPD)が42.7%・224議席を占めて、46.1%・242議席を得たキリスト教民主同盟・社会同盟(CDU/CSU)とで5.8%・30議席を占めた自由民主党(FDP)との連立を目指した。CDU/CSUはその3年前に自由民主党との連立を解消した経過があり、引き続き政権を担当するには社会民主党との大連立を継続するしか選択肢はなかった。しかし社会民主党は2つの選択肢があった。社会民主党からすればCDU/CSUとの大連立は自党よりも大きな政党のジュニアパートナーを継続することであり、州レベルではすでに自由民主党との連立政権がいくつかの州で実現しており、何よりも直近の大統領選挙で自党候補ハイネマンを自由民主党が支援して当選したことから、自由民主党との小連立の方が独自の政策を実現しやすいと考えていた。3年前はキリスト教民主同盟・社会同盟が大連立か小連立かの選択があったが、1969年秋は社会民主党がその選択をする立場に立っていた。結果は社会民主党(SPD)は自由民主党(FDP)との連立を選び、ここにヴィリー・ブラントが第4代首相に就任して、社会民主党(SPD)・自由民主党(FDP)連立政権が誕生した。
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