大連立論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:27 UTC 版)
改革立法が失敗し、敵だけが増えつつ、経済はかえりみず政治争いばかりだと判断した民心は政権に刃物を突きつけて、その後、与党のヨルリン・ウリ党は補欠選挙で惨敗することになる。これに盧武鉉は協治を掲げ、野党ハンナラ党に権力を渡すことを含めた選挙制度改革と大連立(挙国連立)政権を提案した。しかし、この提案は、特に保守野党を嫌っていた与党(その中でも釜山出身の盧武鉉を牽制していた一部の全羅道の)支持層の大きな反発を買うことになり、かえって盧武鉉政権のレームダックを加速させることになる。それでも盧武鉉は、反対だけのための反対や政権の揺さぶりは、次の政権のためにも、もう終わらせなければならないとし、地域主義の打破とともに、大連立の提案に固執する。 2005年9月7日、盧武鉉とハンナラ党の朴槿恵代表との単独会談が行われ、2時間30分にわたり二人は意見を交わしたが、双方は合意を見出せずに物別れに終わった。大連立構想はいずれの政治派閥からも支持を得ることなく廃棄された。ただ、皮肉にも盧武鉉政権当時、朴槿恵が取ったすべての言動は約10年後彼女が大統領になった時、正反対の姿で現れ、ネチズンたちに盧武鉉と比較される決定的な契機になる。
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