大連競馬倶楽部
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1923年(大正12年)内地で競馬法(旧競馬法)が成立し馬券発売が始まると、関東州でも大正12年勅令第340号(関東州ニ於ケル競馬ニ関スル勅令)が公布され、関東州で競馬を企画する数多い民間団体は一つにまとめられ社団法人大連競馬倶楽部が発足した。 大連競馬倶楽部は1923年(大正12年)10月第1回競馬、11月第2回競馬を周水子競馬場で行い、周水子競馬場は大連市街から遠く不便だったため、1923年(大正12年)大連星ヶ浦に1周1マイルの競馬場を作り移転した。 星ヶ浦競馬場は南側は塩田に面し、東側は入り江になっており、初期の整備されていないころは満ち潮や強風で海水を被ることもあったが、次第に整備され4000人収容のスタンドなどが設置された。 大連競馬は年を経るごとに規模を拡大している。 大連競馬データ(昭和7年までの数字)年号年 開催回数開催日数競走回数出走馬数入場者数馬券売上競馬賞金総額大正 12 2場所 8日 96回 242頭 9,352人 162,015円 26,270円 13 3 12 142 283 22,598 411,290 41,976 14 4 16 196 307 46,688 583,451 43,615 15 4 16 208 351 53,563 609,087 62,320 昭和 2 4 16 219 375 49,939 668,607 61,380 3 4 16 225 426 51,806 677,621 69,505 4 4 22 314 545 45,039 956,799 88,910 5 4 24 346 582 48,309 1,109,560 95,585 6 4 24 336 582 69,644 1,213,755 104,775 7 4 30 425 849 117,291 1,622,505 143,650 大連競馬は年2場所が定例で他に臨時開催を加えて行われた。馬は外蒙古やハイラル地方の蒙古馬を基礎にした満州馬とそれの子孫で行われ、主に抽籤馬である。1932年(昭和7年)時点での獲得賞金高の多い5頭中4頭を抽籤馬が占めている。呼馬も1924年(大正13年)から導入され、呼馬は初期は蒙古やハイラルから購入していたが、関東州内で満州馬の改良種が生産されるようになってからは関東州内の産馬が主流になっている。関東州の出走馬は牝馬のみに限定された(例外的に初期と昭和3-5年に少数の騸馬が出走している)。 競走は駈足競走(普通の競馬)に加えて繋駕速歩競走(トロットレース)も行われ、駈足競走は1200メートルから2400メートル(最多は1600メートル)で行われ、繋駕速足競走は2200メートルから4000メートル(最多は3200メートル)で行われた。1932年(昭和7年)では駈足競走が372回に対して繋駕速足競走は30回行われている。 騎手は1933年(昭和8年)の数字では大連競馬倶楽部所属39人のうち九州出身者が半数以上を占め、これは他の関東州競馬場(奉天、安東)でも同じ傾向だったという。
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