大連競馬の始まり
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1919年(大正8年)満州競馬法制定の請願書が帝国議会で採択されたのを機に関東州での競馬が動き出す。 1920年(大正9年)7月大連の老虎灘に1周320メートルの馬場を作った大連乗馬会が関東軍と満鉄の後援で花競馬を行い、1枚1円で配当は5倍を限度として馬券を発売したのが日本人による関東州競馬の嚆矢とされている。同会は同年9月にも花競馬を行うが大連乗馬会の花競馬は稚拙なものだったという。 また、同年、大連の周水子に1周1マイル、コース幅15間(27.3メートル)の馬場を作った遼東競馬倶楽部という組織が競馬を行ったという。遼東競馬倶楽部では馬券5枚付入場券11円、馬券2枚付き入場券5円、馬券1枚付き入場券3円など3種の券を発売し、控除率30%として競馬を行い2万円の売り上げがあったという。大連周水子の遼東競馬倶楽部は翌年以降も競馬を行っている。 1923年(大正12年)になると大連ではこのほかにも競馬を行う団体が現れ、満蒙馬匹改良協会という団体が老虎灘競馬場で競馬を行って3日間で23万円を売り上げ、大連星ヶ浦では1周800メートルの馬場を作って民衆競馬という競馬が行われ盛況だったという。老虎灘競馬場は狭く、周水子競馬場は広いが大連市街からは遠く、後の公認大連競馬は星ヶ浦で行われている。1923年(大正12年)にはたくさんの団体が競馬を企画したという。
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