大連立への反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 02:54 UTC 版)
「ヘンリー・チャップリン (初代チャップリン子爵)」の記事における「大連立への反対」の解説
1915年に第一次世界大戦が勃発すると、ハーバート・アスキス首相は保守党党首ボナー・ローらと会談を持ち、自由党と保守党による挙国一致内閣を成立させた。これに対して、チャップリンは連立反対、解消を訴えて、庶民院における連立反対派の指導者の役割を果たした。 1916年に脳卒中の発作に襲われた。再び叙爵の提案があり、これを機に引退するよう説得された。1900年のときと違って今度は了承し、1916年にチャップリン子爵に叙されて貴族院に移った。 この年、自由党のデヴィッド・ロイド=ジョージが政権を握り、アスキスに代わって大戦の戦争指導を開始した。しかし大戦が終結すると、ロイド=ジョージの国政にはワンマンが目立ち、チャナク危機での強硬外交、栄典制度に絡む政治と金の疑惑によって議員らの顰蹙・不満を買っていた。そのため事態はチャップリンの主張どおり大連立の解消に推移していく。1922年10月、保守党党員の社交場カールトン・クラブ(英語版)で議員総会が開かれ、大連立継続が議論に掛けられることとなった。その結果、賛成187・反対87の大差で、連立の解消が決議された。この会合にチャップリンも加わって賛成票を投じようとしたが、貴族であることから出席を拒否されている。なお大連立の支持基盤が保守党であったため、ロイド=ジョージは結果を聞くや即日に内閣総辞職を決断している。 翌年の1923年に82歳で死去した。長男エリックが爵位を継承した。
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