大連立と「ハプスブルク危機」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:54 UTC 版)
「オーストリア国民党」の記事における「大連立と「ハプスブルク危機」」の解説
戦後しばらくは社会党との大連立が組まれていたが、大連立政権の基礎をなしていた力のひとつは、両党の指導者たちが戦争経験によって結ばれていたことである。そして世代交代が進むにつれて、国民党と社会党の双方で、他党との妥協を好まない単独政権を志向する勢力が伸張した。 1960年代初頭、ハプスブルク法受諾を表明した元皇太子オットー・フォン・ハプスブルクの帰国の是非をめぐって、政界で大論争が繰り広げられた。いわゆる「ハプスブルク危機(Die Habsburg-Krise)」である。王党派を支持層のひとつに抱えていたため、国民党はハプスブルク家寄りの対応を取ったが、一方の社会党はオットーの帰国を拒絶する態度を崩さなかったため、この問題で大連立はとうとう崩壊するに至った。そして1966年3月の選挙の結果、国民党党首ヨーゼフ・クラウス(ドイツ語版)が戦後初の一党政府を組織した。
※この「大連立と「ハプスブルク危機」」の解説は、「オーストリア国民党」の解説の一部です。
「大連立と「ハプスブルク危機」」を含む「オーストリア国民党」の記事については、「オーストリア国民党」の概要を参照ください。
- 大連立と「ハプスブルク危機」のページへのリンク