大祖国戦争1941年6月~1942年11月
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「赤軍」の記事における「大祖国戦争1941年6月~1942年11月」の解説
緒戦での敗北は赤軍の軍・軍団・師団の戦力を破滅的に減衰させ、指揮官と支援用兵器の不足に対応するには、赤軍機構そのものの単純化が必要だった。軍団単位の解体により、軍司令部は狙撃師団を直接掌握することが可能になった。狙撃師団自体も兵員や物資の不足に対応するため簡素化され、師団にくみこまれていた対戦車砲隊、野砲隊、高射砲隊、機甲車両隊などの「特化部隊」が切り離され、各軍司令官が戦況に応じて自由に配分出来るようになった。兵員が定員割れした師団は旅団として再編成され、経験の浅い新任将校にとって旅団単位の指揮は現実に適していた。機械化軍団は全て廃止され、再編成された師団や旅団は歩兵支援にまわされた。機械化され機動戦用に設計された赤軍は解体され、縦深攻撃の教義を一旦捨て去ることで、現実に適した部隊編成と兵力の集積を成功させた。1941年冬~1942年春にかけて枢軸軍の攻撃に順応していった赤軍は縦深作戦の概念を復活させた。モスクワ冬季攻勢を指揮したゲオルギー・ジューコフは完全装備の部隊を集めた打撃集団を創設、打撃集団を狭い正面に集中投入することで、ドイツ軍の戦線をこじ開け攻勢を成功させた。ジューコフの命令は最高総司令部によって制度化され、全ての戦線司令部は攻勢時に打撃集団の編成が義務付けられた。狭い戦闘正面に戦力を集中することで、特定のドイツ軍部隊に兵力上の圧倒的優勢を実現させるためだった。また最高総司令部は砲兵の運用法も制度化し、三段階に分けた砲撃支援の指令を出した。最初の段階では陣地に火力を集中し、機甲部隊と歩兵が前進を始めたら抵抗拠点に火力を集中、戦線が進むにつれ砲撃支援をより後方へ移動させる。この指令は従来の軍事ドクトリンの確認に過ぎなかったが、砲兵の効果的な運用について重大な改善をもたらした。戦前軽視されていた縦深防御への注力は、対戦車陣地や複合陣地を産み出し、モスクワとレニングラードでの成功をもたらした。また赤軍は1941年に壊滅した機械化兵力の再建に全力を注いだ。新しい機械化兵力の創設は装甲兵総監フェドレンコ上級大将の任務だった。フェドレンコは各種兵科を統合した機械化部隊の構想と概念を復活させ、ドイツの装甲師団に匹敵する戦車軍団を創設した。2個戦車旅団に1個自動車化狙撃旅団を加えた総計5603人と戦車100両の編成だった。フェドレンコはさらに1個戦車旅団と持続的な諸兵科共同作戦に必要な各種支援戦闘部隊を加えた総員7800人と中戦車98両、軽戦車70両の編成に切り替え、このタイプの戦車軍団が1942年中に28個編成された。9月になるとフェドレンコはさらに大きな機械化軍団の創設を試みた。夏の戦闘で歩兵の損害が大きかったことから従来の機械化軍団に機械化旅団3個と1個戦車連隊、1~2個戦車旅団を加えた新しい機械化軍団を創設、総員1万3559人、戦車204両の編成になった。この新しいタイプの機械化軍団は8個しか創設されなかったが、フェドレンコは戦いを通じてより効果的な編成を考え、1943年にはドイツの装甲軍に匹敵する各兵科を統合した真の機械化兵団を産み出すことになる。1942年製機械化軍団は1941年製に比べるとコンパクトになり、狙撃軍を支援する機動兵力としては理想的な集団だった。しかし縦深が100キロ以下の小規模な突破にしか運用出来ず、大規模な包囲作戦を実行するにはもっと大きな戦闘単位の機械化兵力が必要だった。赤軍は残っていた機材の総力を挙げて機械化兵力の再建に取り組むことになる。
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