大祖国戦争下のムルマンスク
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「ムルマンスク」の記事における「大祖国戦争下のムルマンスク」の解説
「銀狐作戦」を参照 大祖国戦争の始まった1941年には、フィンランドからドイツ軍は、ムルマンスクの攻略とムルマンスク鉄道の遮断を目的として、銀狐作戦を実施した。フィンランド領ペツァモからは、ドイツの山岳軍団2個師団がムルマンスクを目指して進撃した(白金狐作戦)が、ムルマンスクより約65km西のリスタ川で、ソ連軍部隊の抵抗にあい進撃は停止し、9月にこの攻勢作戦は中止となった。フィンランド中部から、カンダラクシャとルウキを目指した別の作戦、北極狐作戦も行われたが、これらも失敗して、作戦は11月に打ち切られた。 1942年には、アメリカの膨大なレンドリース法の援助物資が、バレンツ海船団により、ムルマンスクとアルハンゲリスクに流れ込んでいることが明らかになり、ドイツ軍は、空軍と海軍の戦力をノルウェーに集積した。空軍の作戦機は、約260機に及んだ。これらの空軍機は、バレンツ海船団の攻撃とムルマンスクの空爆を行った。ムルマンスクの空爆は、独ソ戦でドイツ空軍がおこなった空爆としては、スターリングラードに次ぐ規模で、ムルマンスク市街の大半は焼失した。1942年11月に、連合軍がトーチ作戦で、北アフリカに上陸すると、ノルウェー北部のドイツ空軍のほとんどは、地中海戦域に転用されて、ドイツ空軍によるムルマンスクへの脅威は去った。 大戦中を通じて、レンドリース法の援助物資は、バレンツ海船団によりムルマンスクとアルハンゲリスクにもたらされた。ソ連へのレンドリース法物資の約半分が太平洋ルート、ペルシャ湾ルートとバレンツ海ルートが、それぞれ約4分の1ずつであったが、ペルシャ湾ルートは、本格的に稼働したのは1943年になってからで、太平洋ルートは、日本が臨検する可能性があるので、兵器・弾薬などは積めないことになっていた。バレンツ海ルートは、もっとも早期に立ち上がったルートで、ソ連の勝利に大きく貢献した。
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