大祖国戦争開始からの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:04 UTC 版)
「SU-152 (自走砲)」の記事における「大祖国戦争開始からの状況」の解説
1941年の独ソ戦開始まで、砲兵部隊との兵器の所属を巡る軋轢により、しばらく固定戦闘室式自走砲の開発は頓挫していたが、当時ロシアの仮想敵であったドイツ軍では、固定戦闘室式のIII号突撃砲が、歩兵を支援する対陣地戦から対戦車戦まで活躍していた。一方、回転砲塔式のKV-2は火力支援だけでなく対戦車戦に投入され、初期こそ善戦したが、重装甲の回転砲塔は平坦な所でないと旋回できず、機動戦の障害となり損害を増やすことも多かった。 更にロシアは、ドイツ軍との緒戦において大損害を負い、工業地帯も東部に移転するという状況に置かれた。ロシアは、1両でも多く前線に強力な火砲を搭載した戦闘車両を送る必要があり、その点、固定戦闘室式が、生産性でもより強力な火砲を搭載する上でも有利であった。そこで、レニングラード(現サンクトペテルブルク)からチェリャビンスクに疎開したキーロフスキー工場において、固定戦闘室に45mm砲や76.2mm砲の複数砲を装備したKV-6とKV-7が開発されたが、採用には至らなかった(KV-6については火炎放射型とする資料もある)。試作車両の設計には明確な目的・運用の思想を欠き、車両を見たスターリンは、多砲塔戦車の時と同じく「複数砲でなく、単独だが強力な砲が必要だ」と判断を下している。 1942年終盤から1943年初頭、ドイツ新型重戦車ティーガー出現の脅威と、スターリングラード攻防戦における重火力支援が不十分だった事(英語サイトにこの新説が唱えられている)に対する解決が図られた。この新型車両の開発はコーチン主任技師以下が担当し、KV-1S重戦車をベースにした自走砲として、203mm榴弾砲を搭載したKV-12と152mm榴弾砲を搭載したKV-14の開発が開始された。しかし、これは実用上の問題があり、KV-14に絞って開発が行われた(KV-12については通常のKV-1を改造した化学戦用車両とする資料もある)。 ソ連の公式戦史「第2次世界大戦史」に拠れば「わずか25日で設計が完成した」とされているが、それだけ短期間で設計が完了したのは、その時点で既に設計がほぼ完了していた前述のKV-14を原型としたためである。 本車が搭載した152mm ML-20S榴弾砲は、弾頭重量48.78kgの徹甲榴弾(BR-540)を初速655m/sで発射し、距離1,000mで120mm、2,000mでも110mmの直立鋼板を貫徹することが可能で、車体前面装甲が100mmのティーガー重戦車の装甲を、貫徹というより弾量効果により確実に破砕する事ができた。また、ケーニヒスティーガーの装甲であってもこの巨砲の砲弾質量には抗しがたかったらしく、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「貫通されなかったが、叩き割られた」[要出典]という事例まであるという。しかし、発射速度は分離薬莢式ということもあり、1-1.5発/分で、搭載弾薬も20発分しかなかったことは欠点であった。 本車の前面装甲は75mmとやや不十分であり、ISU-152では90mmに強化された。 照準器は、間接照準のオプティカル照準器と同軸式直接照準のテレスコープ照準器(ST-10)が装備された。通信用に10-RK-26送受信機、車内コミュニケーション用にTPU-3通信装置が備えられた。 本車は1943年2月14日に正式採用され、3月から量産に入り、5月に最初の部隊編成がなされた。これらの車両は軍または方面軍直轄の独立重自走砲連隊(OTSAP)に配属された。生産が整わないためにSU-152は4個中隊×3、12両プラスKV-1S指揮官用車両×1で構成された。
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