在留日本人救出への動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 15:40 UTC 版)
「葫芦島在留日本人大送還」の記事における「在留日本人救出への動き」の解説
2回目の中国国民政府とアメリカとの上海会議は1946年1月行われ、既に満州ではソ連や共産側による日本側資産の接収とさらに資産によってはソ連への移送が進んでいたため、アメリカにとっては国民党政府側の要求する資産接収に反対する意味はなくなり、共産勢力側への技術や技術者の移転をいかに掣肘・抑止するかに関心が移っており、国民党の資産接収を認める代わりに人間の帰還を進めることが決まった。この2回の上海会議で決まった内容に基づいて、まず3月邦人の引揚げが米・国民党勢力下からの引揚げが始まった。この2回目の上海会議では、旧満州からの帰還のために、瀋陽に米軍輸送本部を設け、コロ島と可能なら大連をその港湾とする案が出されていた。コロ島は米海軍の拠点から近く、国民・共産両勢力の境界付近に位置していたためである。しかし、共産勢力支配下からの引揚実現のためには、国共内戦を一時、停船させねばならなかった。その任務のために、既に1945年12月にはマーシャルが北京に派遣されていた。国共両軍の衝突や冷戦対立が鮮明化していく中でマーシャルの停戦工作は続けられ、1946年5月11日、米・国・共3者の協定が締結され、コロ島が確保された。前年10月の上海会議の決定に基づき、アメリカがコロ島から日本への輸送を担当するため、アメリカ船を中心に引揚船がコロ島に終結、邦人が引揚げることになる。その後、米ソの協議も始まり、1946年12月には引揚げに関する協定が米ソ間でも結ばれた。 一方、現地満州では、邦人らは預金は封鎖され、都市に避難した開拓団民には職もなく、ソ連支配時期にはソ連兵士らの暴行・掠奪の危険に晒される状態の中、満州・鞍山の残留日本人3名(新甫八朗、丸山邦雄、武蔵正道)らが直接満州の状況を伝え、邦人の救出活動を要請するため、日本に帰国することを決意した。1946年2月旧知の中国人やカトリック教会、半島ホテルの支配人であった朝鮮人などの助けを受け、ソ連軍兵士や八路軍兵士の監視の網をかいくぐり、天津経由で密かに脱出した。日本に到着すると、情報をつかんでいた新聞社の記者らの出迎えを受け、朝日新聞西部本社で記者会見、東京でも記者の取材攻勢を受けたが、GHQの検閲コードに触れたのか、ごく簡単にしか報道されなかったという。丸山はGHQ内のソ連関係者の圧力を疑っている。その後、各種関係機関、GHQ民間引揚者団体を訪問、高碕達之助の書状を下に当時の幣原首相と楢橋書記官に会って陳情、大連カトリック司教の紹介状を下にポール・マレラ法皇使節に会い、今度はそのマレラから紹介状を得て、度重なるGHQ訪問・陳情を果たしている。当時の吉田茂外相には「日本には今、外交はない。しかし、うまくGHQを操って有利な策をとらせるから心配はないよ」と言われる。1946年4月、ダグラス・マッカーサーGHQ司令官に面会を果たし、すでに担当将校から報告を受け研究させていること、希望に沿うよう方途する考えとの回答を受ける。1946年10月5日、大陸同胞救援連合会が結成され、会長に下条康麿、最高顧問に賀川豊彦、植原悦二郎ら、常務理事に新甫と丸山らがそれぞれ就任、救援運動も全国的に知られていくこととなった。
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