国の石炭政策と北炭夕張新炭鉱の開鉱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 04:27 UTC 版)
「北炭夕張新炭鉱ガス突出事故」の記事における「国の石炭政策と北炭夕張新炭鉱の開鉱」の解説
終戦直後、国は国土の復興に不可欠な石炭・電力・鉄鋼の三事業を最優先で再生させる「傾斜生産政策」を打ち出したが、割安な海外炭や石油への依存度を強めるエネルギー政策の転換により、以後は国の強い指導のもと、各炭鉱に合理化を求めた。国は1962年(昭和37年)に策定された「石炭合理化大綱」により、当時出炭していた炭鉱を「ビルド鉱」「現状維持鉱」「スクラップ鉱」にランク分けし、国策として計画的な生産合理化と閉山に着手。これにより九州(筑豊)・北海道(空知)をはじめとした産炭地域では昭和40年代にかけて、「スクラップ鉱」とされた中小炭鉱が次々に閉山へと追い込まれた。その一方、「ビルド鉱」とされた大手炭鉱では国から補助金などを受けながら、最新の設備を導入して大規模炭鉱の開発を進めた。この「ビルド鉱」の一つが、1975年(昭和50年)6月に出炭を始めた北炭夕張新炭鉱だった。 夕張は北炭が1890年(明治23年)より炭鉱開発を始め、従業員のために電気・ガス・水道・道路などの社会基盤も整備するなど、夕張の街は事実上、北炭が作ったものであった。最盛期には大小24の炭鉱を擁し、11万7000人の人口で栄え「炭都」と呼ばれた夕張も、相次ぐ閉山により炭鉱の数は大幅に減り、事故発生時の1981年(昭和56年)には北炭夕張新炭鉱のほか北炭真谷地炭鉱・三菱南大夕張炭鉱の3つにまで減っていた。こうした石炭産業の斜陽化のなかで北炭も経営難に陥り、1981年(昭和56年)には国から石炭政策に基づく制度融資として計270億円の貸し付けを受けていた。北炭夕張新炭鉱は北炭グループが企業の存亡をかけ、最新鋭の設備を揃えて開鉱した炭鉱でもあった。しかし、国は巨額の貸し付けを行う一方で、北炭夕張新炭鉱に対して一層の合理化を求めた。 北海道新聞が取材した当時の関係者の証言によると、国から『生産計画を達成できなければ、補助金を打ち切る』と圧力をかけられ、会社は計画達成のために無理をし続けていたという。「坑道が地圧でつぶれ炭車(採掘した石炭を運ぶ箱車)が通れなくなったら、レール部分を掘り下げる応急措置で生産を続けた」とも証言している。夕張は良質な原料炭(主に製鉄・鋳物用に使われる粘結性の強い強粘結炭)が産出されたが、一方でメタンを多く含むガス(コールベッドメタン)が頻繁に発生していたうえ、地下深い鉱脈で採炭していたことからたびたびガス爆発や炭塵爆発、落盤等の事故に見舞われ、災害の多さも際立っていた。夕張新炭鉱でも営業開始直後の1975年(昭和50年)7月にガス突出事故(死者5名)が発生していたほか、1981年(昭和56年)にも2度の落盤事故などで5名が死亡していた。夕張新炭鉱の石炭層は盤圧が高いうえに自噴メタンガス量も北海道内の他炭鉱の平均値と比較して3倍の値であり、ガス突出事故の起きやすい炭鉱として要注意とされていた。その一方、事故が発生した北部開発区域は北炭再建の決定的な鍵を握る場所とも位置づけられていたため、大量のガスや盤圧対策が技術的に解決されていなかったにもかかわらず、日産5000トンとしていた出炭計画量を下回る状況が営業開始当初より続いていたことから採炭を優先し、ガス抜きのためのボーリングなど坑内の保安対策は後手に回っていた。坑内のガス濃度は1.5%を超えると危険な状態とされ、会社の基準では坑内員を避難させることになっていたが、坑内員のガス測定器から警報ブザーが鳴りっぱなしの状態であることを保安係員に報告しても、ブザーが鳴る目盛りを2%まで上げて採炭を続けさせた。事故現場付近では以前より警報音が鳴り続けており、ガス濃度が高いことを示していたため「発破は危険」と進言していたが、それも無視されたという。
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