合理化の推進
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昭和40年代に入るとモータリゼーションが進み、鉄道の利用客は減少し始めた。これに対応して職員数の削減が進められ、1972年(昭和47年)には米原 - 八日市間がARC化(自動閉塞)された。昭和50年代後半になると国鉄側の貨物輸送の拠点間輸送化の影響を受けて近江鉄道の貨物輸送の縮減が進み、1984年(昭和59年)9月にキリンビールの輸送、1986年(昭和61年)3月にセメント原石の輸送、1988年(昭和63年)3月に日本石油の輸送が廃止されて貨物輸送が全廃となった。1984年2月には鉄道による郵便輸送も全廃されている。 輸送量の少なかった本線の八日市 - 貴生川間では、1986年(昭和61年)4月1日からLE-Carと称するレールバス(LE10形気動車)の運転を開始し、同時にワンマン運転を開始した。電化関連設備の保守経費とワンマン化に伴う人件費の削減を狙ったもので、水口にあった変電所を休止した。このために日野に車庫を置いて給水・給油を行ったが、気動車は電車より保守に手間がかかる傾向にあった。また、定員が輸送量に対して小さく、ラッシュ時の1本のみ電車の運行を残したことから電化設備は維持されたままであった。後に220形が導入されるにつれてLE-Carの運用は減少していき、休止されていた水口変電所も1992年(平成4年)2月に復旧され、最終的にLE-Carは1996年(平成8年)9月30日限りで運用を終了した。 1987年(昭和62年)には残されていた八日市 - 貴生川間もARC化(自動閉塞)され、近江鉄道全線が自動閉塞化された。また米原 - 八日市間もワンマン運転が開始されて、本線の全線がワンマン運転となった。1990年(平成2年)には誤出発防止と終端防護の機能のある自動列車停止装置 (ATS) が設置された。 1998年(平成10年)10月にJRが米原駅の新駅舎を建設して移転したため、近江鉄道の米原駅は取り残された状態となっていた。2005年(平成17年)から近江鉄道の米原駅の移設工事が進められ、2007年(平成19年)6月8日に開業した。新駅は約60メートルJR側に移設され、新駅に至る1609.2メートルの線路が新設された。 沿線の人口減少や自動車の普及によって1994年(平成6年)度から近江鉄道全体で赤字となり、施設の老朽化が顕著な問題となっている。近江鉄道は2016年に滋賀県へ「単独経営での運営は困難」と申し入れ、県や沿線自治体との法定協議会が開催され今後の方針が検討された。協議会の中で沿線の住民や学校に対して行ったアンケートでは高齢者や学生などにとって自動車によらない交通手段として重要という声が上がり、また民間の調査会社によって廃止で代替施策を行うより存続した方が費用面で効果的と結論を出し、近江鉄道全体で存続が決定した。
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