合理化に関する取組みとその後の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 04:23 UTC 版)
「北総鉄道」の記事における「合理化に関する取組みとその後の展開」の解説
開業当初、駅務業務に関して徹底した合理化が図られており、昭和50年代当時としては画期的であった。 全駅に自動券売機、自動改集札機、自動精算機が設置され、各駅には出改札要員を一切配置せず、集約化された定期券の発売業務を除き、出改札業務の総てが機械化、無人化されていた。昭和50年代半ばにも拘わらず、開業当初は有人による出改札口を備えた駅が存在しなかった。非磁気化券を所持している旅客が出場する場合、たとえ運賃精算が不要であっても、各駅に設置された自動精算機で磁気化された出場券に交換のうえ自動改集札機で出場する駅務システムで、非磁気化券所持者が出場するためには、自動精算機による切符交換が常に必要であった。 しかし、当時は直通運転先の終点である新京成電鉄松戸駅が、国鉄との共同使用駅であり改札口が分離されていなかったこと、また国鉄や新京成電鉄などが自動改集札機に対応していなかったことから、非磁気化券を所持する旅客がそのまま到着するケースが想定外に多く発生した。結果として各駅からの精算・切符交換要求が集中すると、精算機による処理に非常に長い時間を要する事態となり(特に常磐緩行線の乗り入れ先である営団地下鉄や、その先の乗り入れ各社線からの乗車券の精算に時間を要した)、当該旅客から大きな不評を買う結果となった。 自動精算機とはいえ、実際には、指令センターの係員が小型カメラで券面を読み取り、コンピュータを操作して精算するという半自動方式の駅集中管理システムで、新鎌ヶ谷駅(開業当初は信号所)から遠隔操作で行なっていた。読取面に収まれば、例え国鉄の周遊券(非磁気化券)でも精算可能な便利なシステムであったが、センターの機器数やそれを操作する要員数が少なかったことから前述のような結果となり、このシステムが長続きすることはなかった。 その最大理由は、精算に要する時間と切符交換を必要とする旅客数との見込み違いによる誤算であった。1本の列車は次々と各駅に到着してゆくが、駅に到着した旅客の精算業務が終わらないうちに当該列車が次駅に到着して新たにそこからの精算要求が加わり、その後、列車が次々駅に到着すると、更に精算要求が加わるという「雪だるま式」の状態が多発し、捌ききれない旅客が、日々長時間待たされるという結果が生じることとなった。 このため、1982年頃には、自動精算機による精算・交換を諦めて精算機の使用を停止、各駅に有人窓口を設置して精算等の業務に対応するようになっていた。それ以前から、係員が精算機の前に立ち、精算不要の非磁気化券を持つ旅客に対して、手渡しで出場券に交換することも常態化していた。 機械化、自動化による駅務業務の合理化という、当時としては時代を先取りした、画期的な計画は実用化に至らず、その後の都心直通運転を開始した1991年に、このシステムは正式に廃止された(自動券売機、自動改集札機はその後も継続使用)。
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