原作者の不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 09:34 UTC 版)
「ムーミン (アニメ)」の記事における「原作者の不満」の解説
トーベ・ヤンソンは、アメリカのカートゥーンや西部劇のテレビ放送などを野蛮に思っていたようで、それらの要素を本シリーズに感じていたという。1969年版の脚本家・山崎忠昭の著書『日活アクション無頓帖』に掲載された、トーベの手紙の全文翻訳では、「出発点、即ち、ムーミン谷、ムーミン的考え方すべてが違って表現されている」に始まり、「ムーミンは蝶を虫取り網で捕まえたりしません。蝶が自然に捕まるか、逃げるに任せます」「(スノークの)自動車は使うべきでない」「(本シリーズに)都会は不向き。彼らは現代社会には生きてはいない」「ムーミン家の内装を変えて欲しい。広すぎてガランとしている。事務所のようにみえる」「手を伸ばさないと出来ないならば、ギターの演奏は止めて欲しい」「ママは常にハンドバッグ、パパはステッキを持つこと」など、作品世界の文化から各登場人物の持ち物・服装・生活様式に至るまで、こと細かに要望が書き連ねられている。「スノークのお嬢さん」に名付けた「ノンノン」という名前も、「no」や「non」という否定的な響きに受け取れるとしていた。 東京ムービー制作期の大塚康生によるキャラクターデザインは原作小説の挿絵がベースとしつつ、当時の流行に則って大胆にアレンジしており、絵の丸みを大切にマシュマロのような柔らかさをもって描かれていた。当時の視聴者にはこの丸みを帯びたキャラクターデザインが「かわいい」と受け入れられたが、トーベにはシャープさに欠けると不評だったようである。また、角ばった顔と彩色が「(設定では妖精の)ムーミンはカバ」という勘違いの材料の1つだったことも指摘されている。 虫プロ制作期に作画で参加した森田浩光によると、トーベとは何度か話し合いの場が設けられたといい、トーベ自身が虫プロに出向いたこともあった。だがトーベの要望は、日本の風土に合わないと判断され採用されなかったものもあり(スナフキンやミイの素手を黒くしてほしいなど)、トーベは「これ(同作品)を海外で売る場合は、トーベヤンソン原作のムーミンとして売ることは認められない」と言っていたという。 1969年版はもとより、1972年版でデザイン変更をさらに試みても、なおヤンソン側からは「日本国内はともかく、外国での放送は認めません」の一点張りだったと言われている。その一方で、トーベは本シリーズを全否定していたわけではなく、水や空などの背景を「カラー効果が上手くでている」と褒めたり、来日時に「日本的なムーミンもあってもよいと考えるようになりました」と発言し、晩年には「自分の描いたムーミンと違っていても子供たちが喜ぶならそれでいい」と本作を肯定する発言もしていた。 1971年には、1972年版の放送開始記念にトーベが親友のトゥーリッキ・ピエティラ教授と一緒に日本に招かれた際、当時日曜に再放送されていた1969年版を見せないよう、放送する時間帯に高橋社長がトーベをホテルから連れ出して鎌倉の海岸に誘い出したり策を練っていたという逸話がある。 このように原作者は不満を持っていたものの、視聴者の子供や親達からは好評を得ていたようで、後述の『楽しいムーミン一家』放送前日までは再放送が繰り返され、ズイヨー(瑞鷹)監修のキャラクターグッズやレコード・ビデオなども発売されたり、後述の通りキャラクターがトヨタ自動車の交通安全キャンペーンなどに用いられるなど長く愛された。そのため、原作の「スノークのお嬢さん」を「ノンノン」と認識している世代も多い。
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