原作者による評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:40 UTC 版)
原作者西村賢太によるこの映画の評価は、媒体によって指摘のポイントを選んでいる。『TVブロス』7月第一週発売号でこの映画の特集が組まれ、原作者の西村へのインタビューが載ったが、「面白い映画ではない」との評価であった。いっぽう、上記の中野のコラムで紹介された西村のコメントは「瑕瑾(かきん。多少の欠点の意)はあるものの、面白さにおいて脱帽した箇所が少なくなかった」とやや肯定的な評価であった。web文芸誌マトグロッソにおける公開日記「ある私小説書きの日乗」では、「製作サイドの不備が多い。この映画を二度見ることは無い。時間の無駄」「中途半端に陳腐な青春ムービー」と書いた。 公開前発売号の『新潮』には、西村と山下監督の対談が掲載された。山下は対談の終盤で、西村が試写会用の資料に載った好評とは打って変わった悪評を他の媒体で展開したことが不可解で腹立たしい、と率直に述べている。西村はこれに対し、美点を挙げる為に用意された場所で肯定的な評価を書くのは原作者としての最低限のエチケットであり、批判は批判として別にあると返答。そして、原作者は見てつまらなかった映画でもどんな場でも褒めなければならないのか、と反論し、讃辞だけを聞きたければ自主制作で仲間うちのみでの上映にすればいい、と西村の方も率直に述べている。 『文藝春秋』2012年8月号の公開日記、及び『新潮』の同年8月号のエッセイ、『小説現代』の連載コラムなどでは具体的な批判に踏み込んでいる。原作では、主人公が江戸っ子であること以外に何の誇りも持てず、また周囲に気に入られようと必死にならざるをえない境遇の少年であるのに、映画ではそこが描かれず、主演者の役作りの努力には頭が下がる一方、喋り方が江戸っ子的でなく、コミュニケーション障害にしか見えない点が不満であるとした。また私小説の背負う制約を無視した偶然と不自然さのストーリー改変をあげ、主人公が現状に甘んじている必然性が映画版では描かれていないとし、「苦役の意味、列車の意味。この肝心の点が拙作の意図するところと乖離し、顧みないこの映画に、「苦役列車」を原作に使い、タイトルに使い、自分の分身をも主人公に据えた真実の意味が、果たしてどれほどあるものだろうか」と指摘した。いっぽう、監督や俳優を目当てに来た観客が喝采を浴びせることを容易に想像できるほどには、映画ならではの素晴らしい表現もあったことは認めている。 また、桜井康子の役を、前田ではなく同じくAKB48の柏木由紀にすることを希望していたことをテレビのトーク番組で語ったが、その発言は「一場の戯言」である。実際はAKBメンバーの「顔かたちも確を把握していない」と自ら記している。
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