南米王者・世界王者への挑戦(1960年代)
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1960年代はコパ・リベルタドーレスで3回、インターコンチネンタルカップで2回優勝する黄金期となった。1959シーズンの国内リーグ優勝の結果、1960年に開催される第1回コパ・リベルタドーレスの出場権を獲得した。同大会には南米サッカー連盟(CONMEBOL)に加盟する7ヶ国(ペルー、エクアドル、ベネズエラは不参加)の王者が出場した。記念すべき開幕試合となった4月19日のホルヘ・ウィルステルマン(ボリビア)戦で大会デビューを果たし、カルロス・ボルヘスの大会第1号ゴールやアルベルト・スペンセルの4ゴールなどで7-1と大勝した。準決勝ではサン・ロレンソ(アルゼンチン)を第3戦プレーオフの末に下し、決勝ではオリンピア(パラグアイ)を2試合合計2-1で下して初代南米クラブ王者に輝いた。その後、クラブ世界一を目指して第1回インターコンチネンタルカップにも出場し、アルフレッド・ディ・ステファノやフェレンツ・プスカシュを擁する欧州クラブ王者のレアル・マドリード(スペイン)と対戦した。当時の同大会はホーム&アウェー制で行われており、センテナリオで行われた1stレグはスコアレスドローで終えたが、敵地サンティアゴ・ベルナベウで行われた2ndレグに1-5で敗れ、世界王者の称号を逃した。 翌1961年のコパ・リベルタドーレスでも決勝に進出し、パルメイラス(ブラジル)を2試合合計2-1で下して2連覇を飾った。同年のインターコンチネンタルカップではベンフィカ(ポルトガル)と対戦し、2試合1勝1敗で迎えた第3戦(プレーオフ)に勝利して初の世界一となった。1962年のコパ・リベルタドーレスでは3年連続で決勝に勝ち進み、決勝ではペレを擁するサントス(ブラジル)と対戦。1stレグを1-2で落としたが、2ndレグには3-2で勝利して第3戦のプレーオフに持ち込んだ。しかし、中立地のブエノスアイレス(エスタディオ・モヌメンタル)で行われたプレーオフに0-3で敗れ、第1回大会からの3連覇は成らなかった。1963年のコパ・リベルタドーレスでは、グループリーグでCDエベレスト(スペイン語版)(エクアドル)に2試合合計14-1(アウェーで5-0、ホームで9-1)と大勝。ホームゲームではアルベルト・スペンセルが4ゴールを挙げているが、スペンセルはエクアドル出身であり、デビューした1953年から1959年までエベレストに所属していた。 1965年のコパ・リベルタドーレスでは3年ぶりに決勝に進出したが、インデペンディエンテ(アルゼンチン)に敗れて準優勝に終わった。翌1966年のコパ・リベルタドーレスでも決勝まで勝ち進み、決勝ではリーベル・プレート(アルゼンチン)と対戦。ホーム&アウェーの結果は1勝1敗であり、中立地のチリ(エスタディオ・ナシオナル)で行われたプレーオフに勝利して3回目の優勝を飾った。同年のインターコンチネンタルカップではレアル・マドリードと対戦し、ホーム&アウェーともに2-0で勝利して6年前の雪辱を果たした。 1968年と1969年には、インターコンチネンタルカップの歴代優勝クラブが集結してタイトルを競ったインターコンチネンタル・チャンピオンズ・スーパーカップ(英語版)に2年連続で出場。レアル・マドリードが出場辞退するなど不完全な大会となる中、ペニャロールは1969年の大会を制した。この大会は長らく非公式という扱いであったが、2005年にCONMEBOLによって公式なタイトルとして認定された。 国内リーグでは、1966年9月から1969年9月にかけて不敗を継続し、1969年9月14日のリベルプール戦に0-2で敗れるまで、リーグ史上最長の56戦不敗の記録を樹立した。この記録はウルグアイのみならず南米のプロサッカーリーグ(1部・2部)史上最長の不敗記録である。アマチュアリーグにも対象を広げると、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)が1924年4月から1927年6月にかけて記録した59戦不敗に次ぐ。この時代の著名選手には、アルベルト・スペンセル、フアン・ホジャ(スペイン語版)、ペドロ・ローシャ、ルイス・クビージャ、ラディスラオ・マズルケビッチ、エリアス・フィゲロアなどがいる。
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南米王者・世界王者への挑戦(1940年代-1980年代)
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1948年、南米最強クラブを決めるためにカンペオナート・スダメリカーノ・デ・カンペオネス(南米クラブ選手権)がチリで開催された。同大会には南米サッカー連盟(CONMEBOL)に加盟する7ヶ国(パラグアイ、コロンビア、ベネズエラは不参加)の王者が参加し、ウルグアイからは前年の国内リーグを制したナシオナルが出場した。大会は1試合総当たり方式で行われ、ナシオナルは、ヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)、リーベル・プレート(アルゼンチン)に次ぐ3位の成績を残した。この大会はコパ・アルダオと共に、後のコパ・リベルタドーレスの創設に向けての重要な足掛かりとなったと見なされている。 1960年には南米王者を決めるコパ・リベルタドーレスが創設された。ナシオナルは1962年に初出場を果たした。1964年には準決勝でコロコロ(チリ)を破って決勝に進出したが、インデペンディエンテ(アルゼンチン)に敗れ準優勝に終わった。1967年にはクルゼイロ(ブラジル)、ペニャロールと同居した準決勝リーグを突破したが、決勝でラシン・クルブ(アルゼンチン)に敗れて再び準優勝に終わった。1969年には準決勝でライバルのペニャロールを破ったが、決勝でエストゥディアンテス(アルゼンチン)に敗れて3回目の準優勝に終わった。決勝で敗れた相手はいずれもアルゼンチンのクラブであった。 1971年大会で4回目の決勝進出を果たした際もアルゼンチンのエストゥディアンテスとの対戦となったが、3連覇中の相手にひるまず勝利して同大会初優勝を飾った。同年にはインターコンチネンタルカップにも出場し、ストライカーのルイス・アルティメの2得点でパナシナイコス(ギリシャ)を破り、初のクラブ世界一となった。この時代の南米のトップクラブは全般的に荒っぽいプレーで知られており、UEFAチャンピオンズカップ優勝のアヤックス(オランダ)が出場を辞退したため、準優勝のパナシナイコスが代わりに出場していた。翌1972年のコパ・インテラメリカーナではクルス・アスル(メキシコ)を破って優勝した。 1980年のコパ・リベルタドーレスでは決勝でインテルナシオナル(ブラジル)と対戦し、超満員のセンテナリオでインテルナシオナルを破って2回目の南米制覇を果たした。同年のインターコンチネンタルカップではノッティンガム・フォレスト(イングランド)と対戦し、ワルデマール・ビクトリーノが唯一の得点をあげてノッティンガムを撃破、2回目の世界一となった。 1988年のコパ・リベルタドーレス決勝ではニューウェルズ・オールドボーイズ(アルゼンチン)と対戦。センテナリオでの試合ではバルガス、デ・レオン、オストラサが得点して3-0で勝利、3回目の南米王者に輝いた。同年のインターコンチネンタルカップではフース・ヒディンク監督が率いるPSV(オランダ)と対戦し、2-2(得点はいずれもオストラサ)で決着がつかなかったが、PK戦に勝利して、3回目の世界一を達成した。1989年のレコパ・スダメリカーナではラシン・クルブ(アルゼンチン)を破って優勝した。同年3月のコパ・インテラメリカーナではCDオリンピア(ホンジュラス)に勝利して2回目の優勝を飾った。
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