ルイス・クビジャとは? わかりやすく解説

ルイス・クビジャ

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/12 18:41 UTC 版)

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はクビージャ第二姓(母方の)はアルメイダです。
ルイス・クビージャ
名前
本名 ルイス・アルベルト・クビージャ・アルメイダ
Luis Alberto Cubilla Almeida
愛称 El Negro (ネグロ, 黒)
ラテン文字 LUIS CUBILLA
基本情報
国籍 ウルグアイ
生年月日 (1940-03-28) 1940年3月28日
出身地 パイサンドゥー
没年月日 (2010-09-03) 2010年9月3日(70歳没)
選手情報
ポジション FW
ユース
コロン・デ・パイサンドゥ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1957-1962 ペニャロール 63 (14)
1962-1964 バルセロナ 16 (2)
1964-1968 リーベル・プレート 129 (31)
1969-1974 ナシオナル 120 (39)
1975 サンティアゴ・モーニング
1976 デフェンソール
代表歴
1959-1974 ウルグアイ 38 (11)
監督歴
1979-1980 オリンピア
1980 ニューウェルズ
1981 ペニャロール
1982 オリンピア
1983 アトレティコ・ナシオナル
1984 リーベル・プレート
1985 ナシオナル
1988-1993 オリンピア
1991-1993  ウルグアイ代表
1994 ラシン・クラブ
1995-2000 オリンピア
2000 セロ・ポルテーニョ
2000 クラブ・リベルタ
2003 ビジャビセンシオ
2003 タジェレス
2005 CDコムニカシオネス
2006 オリンピア
2007 バルセロナ
2009 イキトス
2010 オリンピア
2012 タクアリー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ルイス・クビージャLuis Cubilla, 1940年3月28日 - 2013年3月3日)は、ウルグアイパイサンドゥー出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード(右ウイング)[1]

選手としては各国国内リーグ、国内カップ、国際カップなどで計16のタイトルを獲得した。ウルグアイ代表で38試合に出場して11得点し、FIFAワールドカップには3回出場した[2]。監督としても各国国内リーグ、国際カップなどで計17のタイトルを獲得し、1991年から1993年までウルグアイ代表監督を務めた。第1回リベルタドーレス杯の決勝では後に監督を務めることとなるオリンピア相手に決勝ゴールを決めた[3]

経歴

選手

パイサンドゥーに生まれ、地元コロン・デ・パイサンドゥの下部組織でプレーした後、1957年にCAペニャロールからデビューした。ペニャロールではプリメーラ・ディビシオンで4回、コパ・リベルタドーレスで2回、インターコンチネンタルカップで1回優勝した。1962年にはスペインのFCバルセロナに移籍し、1962-63シーズンのコパ・デル・レイで優勝した。バルセロナでは49試合に出場して12得点した。

1964年には南米に戻り、アルゼンチンのCAリーベル・プレートに加入。しかし1960年代のリーベル・プレートは暗黒期といえる時期を過ごしており、国内リーグ、国際カップともにトロフィーを1個も獲得できなかった。1969年にはウルグアイのナシオナル・モンテビデオに移籍し、ペニャロール在籍時をなぞるかのようにトロフィーを獲得。プリメーラ・ディビシオンで4回、コパ・リベルタドーレスで1回、インターコンチネンタルカップで1回、コパ・インテラメリカーナで1回優勝した。晩年はチリのサンティアゴ・モーニングとウルグアイのデフェンソール・スポルティングでプレーし、デフェンソールではクラブ史上初のリーグ優勝達成に貢献した。ウルグアイ・リーグでは1932年のプロリーグ化以降40年以上もペニャロールとナシオナルの2強がリーグ優勝を独占しており、デフェンソールはプロ化後初めて2強のリーグ支配を打ち破ったクラブとなった。

1959年にはウルグアイ代表にデビューした。チリで開催された1962 FIFAワールドカップでは1次リーグ敗退に終わり、イングランドで開催された1966 FIFAワールドカップには出場できなかった。メキシコで開催された1970 FIFAワールドカップでは4大会ぶりに4位となった。西ドイツで開催された1974 FIFAワールドカップでは再び1次リーグ敗退に終わった。ウルグアイ代表では1974年までに38試合に出場して11得点を挙げた[4]

指導者

指導者としては主にクラブ・オリンピアを率い、プリメーラ・ディビシオンで8回、コパ・リベルタドーレスで2回、インターコンチネンタルカップで1回、スーペルコパ・スダメリカーナで1回、レコパ・スダメリカーナで2回優勝し、計14個のトロフィーをオリンピアにもたらした。1979年のインターコンチネンタルカップではUEFAチャンピオンズカップ準優勝のマルメFF(スウェーデン)と対戦し[5]、2試合ともに勝利して自身3度目の世界制覇を果たした。同大会を選手・監督のそれぞれで優勝した初の人物となったが、この記録は後にフアン・ムヒカ(ウルグアイ)も達成している。ホーム&アウェーでの2レグ制は1979年大会が最後となり、1980年大会からは中立地(日本)での1レグ制に移行している。1989年にはオリンピアをリベルタドーレス杯決勝に導き第1戦を2-0と勝利したが、第2戦では追いつかれPK戦の末に敗れた[6]、翌1990年にはコパ・リベルタドーレス、スーペルコパ・スダメリカーナ、レコパ・リベルタドーレスの国際カップ戦3冠を達成し、南米年間最優秀監督賞を受賞した。

オリンピア以外では、アルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズCAリーベル・プレートラシン・クラブ、ウルグアイのビッグ2(CAペニャロールナシオナル・モンテビデオ)、コロンビアのアトレティコ・ナシオナル、パラグアイの3大クラブ(オリンピアの他にセロ・ポルテーニョクラブ・リベルタ)で監督を務めた。2007年2月にはエクアドルのバルセロナSC監督に就任し、2010年には再びオリンピアの監督に就任(6度目)した。

1991年から1993年まではオリンピアの監督と並行してウルグアイ代表監督も務め、兄のペドロ・クビージャがアシスタントコーチとして、アレハンドロ・リッシーノがフィジカルコーチとしてルイスを支えた。コパ・アメリカ1991では5位、コパ・アメリカ1993では6位に終わり、2回優勝・1回準優勝した1980年代とは打って変わって1990年代のウルグアイ代表は低迷した。

2013年3月3日、アスンシオンで死去した。72歳だった。

タイトル

選手時代

クラブ

  • ペニャロール
プリメーラ・ディビシオン (4) : 1958, 1959, 1960, 1961
コパ・リベルタドーレス (2) : 1960, 1961
インターコンチネンタルカップ (1) : 1961
バルセロナ
{ナシオナル
デフェンソール

指導者時代

クラブ

オリンピア
ペニャロール

個人

脚注

  1. ^ TOYOTA CUP ヨーロッパサウスアメリカカップ 1990年 大会公式パンフレット P46より
  2. ^ TOYOTA CUP ヨーロッパサウスアメリカカップ 1990年 大会公式パンフレット P46より
  3. ^ TOYOTA CUP ヨーロッパサウスアメリカカップ 1990年 大会公式パンフレット P46より
  4. ^ Uruguay record international players RSSSF
  5. ^ UEFAチャンピオンズカップで優勝したノッティンガム・フォレストFC(イングランド)が出場を拒否したため、代わりにマルメがインターコンチネンタルカップに出場した。
  6. ^ TOYOTA CUP 1990年 ヨーロッパサウスアメリカカップ大会公式パンフレットP46-47より




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