南平岸時代
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開局から2018年9月まで、社屋は、札幌市豊平区平岸4条13丁目10-17、業務センターは札幌市中央区北1条西3丁目の井門札幌ビル内にあった。南平岸時代は、社屋の最寄り駅である札幌市営地下鉄南北線南平岸駅(開業当初は「霊園前駅」)の次駅案内スポンサーになっていた。 HTBが開局するまでの間、北海道地区での日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日)の番組は、NETが放送を開始した1959年(昭和34年)から札幌テレビ放送 (STV) が放送していた。これはSTVが準教育局として免許を受けたためで、午前中の学校放送のほか、午後のNETニュース(『朝日新聞ニュース』の題名で放送)等をネットしていた。しかし、学校放送と一般番組を抱き合わせにしてのネット拡大に動いたNETの方針にSTVが反発。これにより1962年(昭和37年)以降、NETの番組は学校放送も含め、北海道放送(HBC) が優先してネット受けすることとなり、STVはフジテレビ系列の番組を大幅に増やし、フジテレビの「7都市基幹ネットワーク」方針に乗り一気にクロスネット化が進む。これによって道内ではHBCがTBS系とNET系の番組を、STVが日本テレビ系とフジテレビ系の番組を放送することとなる。 一方、UHFによるテレビ局の大量免許発行の知らせを聞いた北海道財界は相次いで新放送局の設立に向けて動きだし、数社が競願する状態となったが、最終的に実行力に富んだ岩澤靖(当時・札幌トヨペット社長)、岩田厳(当時・岩田建設社長)を中心とした「道民放送」が免許を獲得し、その後競願していた他社を合併して「北海道テレビ放送」が設立された。この時、当時北海道に拠点局が無かったフジテレビとNETの双方から系列入りの勧誘を受けたが、HTBはSTVと繋がりがあったフジテレビよりも、熱心に開局手続きまでバックアップをしたNETを選択した。ただ、HTB開局後もしばらくの間、NETの一部番組はHBC・STVで、朝日新聞ニュースはSTVで放送されていた。また、北海道文化放送 (UHB) が開局するまでは、STVの編成枠が埋まり、放送できなくなったフジテレビ系の番組を一部放送していた。なお、HTBには朝日新聞の他に読売新聞の資本も入っており、開局準備段階では札幌テレビの編成から外れた日本テレビ系の番組を火曜・木曜のゴールデンタイムに編成することも検討されていた他、開局後の数年間はタイアップを行っていた時期もあり、現在でも読売新聞のCMが時折放送されているものの、1973年(昭和48年)以降、読売新聞はSTVとの関係を強めていった。また、開局以来、HTBでは『読売新聞ニュース』を放送していない。 また、1989年(平成元年)10月にテレビ東京系列のテレビ北海道 (TVh) が開局するまでは、『土曜競馬中継』、『演歌の花道』、『ザ・スターボウリング』、『キャプテン翼』などといったテレビ東京系の人気番組が番組販売やスポンサードネットの形で放送していた。 開局当初は免許交付の条件として教育・教養番組30%以上が付いていたが、1973年の再免許交付で総合番組局となった。また、開局当初、視聴には、HTB専用のUHF受信変換機(SIコンバイザー)が必要であり、開局時の受信数は、82,490台。 HTB初代社長であった岩澤靖は、HTBのほかにトヨタ自動車系カーディーラーの「札幌トヨペット」、「トヨタカローラ道都」、「トヨタオート南札幌」、レンタカー事業を行う「トヨタレンタカー新札幌」、ハイヤー・タクシー会社の「金星自動車」、「学校法人希望学園」、「札幌大学」を創設し初代理事長を務めるなど数々の企業や学校法人を経営。一時期は「岩澤コンツェルン」といわれるほどの一大企業グループを築き、政商としても名をとどろかせていたが、のちに株投機の失敗により、親会社の札幌トヨペットが経営破綻。1981年(昭和56年)には子会社のHTBも影響を受け連鎖倒産の危機におちいったが、テレビ朝日や朝日新聞などの朝日新聞系列各社がHTBに救済出資し、倒産の危機を免れたのを契機に朝日新聞系列各社との結びつきが強い放送局となる。その後、1996年(平成8年)に放送を開始した『水曜どうでしょう』などの自社制作の深夜番組が人気となり、現在に至る。
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