南北戦争前の経歴とプレストン・ブルックスによる襲撃
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「チャールズ・サムナー」の記事における「南北戦争前の経歴とプレストン・ブルックスによる襲撃」の解説
ウィキソースにカンザスに対する犯罪の原文があります。 サムナーは1851年遅くに民主党員として上院議員となった。最初の時期は奴隷制度廃止論者の民主党員および改革主義者として特に議論を呼ぶことまではせず、上院の動きを観察していた。1852年8月26日、激しい妨害があったものの、サムナーは初めて議会で演説した。その演題は「自由の国家:地方の奴隷制」(奴隷制度廃止論者がよく使ったモットー)であり、1850年に制定された逃亡奴隷法を攻撃し、その撤廃を要求した。 この頃、二大政党の集会で、1850年協定の決着性が確認されたばかりであった。サムナーは政治的な都合は無視して逃亡奴隷法の即時撤廃に動いた。3時間以上におよぶ演説の中で、この法が違憲であり、民衆の良識に対する侮辱であり、神聖な法に対する攻撃であると非難した。この演説で南部からは非難の嵐が起こったが、北部の者は少なくともその勇気が北部の良識に合致している指導者を見出したとして勇気付けられた。 1856年、いわゆる「血を流すカンザス」事件で「ボーダー・ラフィアンズ(英語版)」がローレンスに接近した時、サムナーは5月19日と20日の「カンザスに対する犯罪」と題する演説でカンザス・ネブラスカ法を非難した。これはローレンス襲撃の2日前のことだった。サムナーはカンザス・ネブラスカ法の立案者であるサウスカロライナ州のアンドリュー・バトラー(英語版)とイリノイ州のスティーブン・ダグラスをドン・キホーテとサンチョ・パンサに喩えて攻撃した。バトラーは心臓の状態が悪くてその演説に欠席していたが、そのバトラーを愚弄した。 サムナーは議院にいたダグラスに、「嫌なにおいのずんぐりした名前の無い動物で、アメリカの上院議員に適した模範ではない」と言った。バトラーを最もひどく貶めたのは、「女主人に売春婦の奴隷を選んだ。他人には醜く見えるのに本人にはいつも愛らしい、世間の目からみれば汚れているのに本人には貞淑に見える。売春婦とは奴隷制のことを言っている」という1節だった。サムナーの3時間の演説は、政治的なレベルでの攻撃だけに満足せず、59歳のバトラーが以前患った卒中のためにその演説や身体的動きに関する欠点があることにまで及び、個人攻撃は残酷さを見せた。 2日後、5月22日の午後、サウスカロライナ州選出の下院議員でバトラーの甥にあたるプレストン・ブルックス(英語版)が、ほとんど空になっていた上院の机で書き物をしていたサムナーの前に立った。ブルックスの後には同じサウスカロライナのローレンス・M・カイト(英語版)とバージニア州のヘンリー・A・エドムンドソン(英語版)が従っていた。ブルックスは「サムナーさん、私は貴方の演説原稿を2回注意深く読んだ。それはサウスカロライナ州と私の親戚であるバトラー氏に対する侮辱だ」と言った。6フィート4インチのサムナーが立ち上がろうとすると、ブルックスは金製の頭のついた太いガッタパーチャの杖でサムナーの頭を殴り始めた(Caning of Charles Sumner)。サムナーは重い机(ボルトで床に固定されていた)の下に隠れたが、ブルックスはサムナーが机を床から剥ぎ取るまで殴り続けた。この時までにサムナーは自分の血で目が見えなくなっており、通路によろけて倒れ、意識を失った。ブルックスは杖が折れるまでサムナーを殴り続け、それから静かに議場を去った。他の上院議員がサムナーを助けようとしたが、ピストルを構え、「やらせておけ」と叫んでいるカイトによって動けなくなっていた。 サムナーはこの襲撃で受けた傷から快復するあいだ、3年間上院に出席しなかった。頭部の外傷に加え、悪夢を見るようになり、ひどい頭痛に苛まれ、今で言う心的外傷後ストレス障害を患っていた。この期間、サムナーの政敵は上院で義務を果たさない臆病者としてサムナーを嘲り非難していた。それにも関わらず、マサチューセッツ州議会は1856年にもサムナーを上院議員に選出し、その上院における空席は言論の自由および奴隷制に対する抗議の強力な象徴として働くと信じていた。サムナーの座っていた座席は、後にサムナーも関わった奴隷制廃止運動家の学校であるベイツ・カレッジが購入した。 この襲撃は南北戦争前の数年間でアメリカ合衆国を2極化させていることを象徴し、サムナーは北部の英雄になり、ブルックスは南部の英雄になった。北部人は激怒し、ニューヨーク・イブニング・ポストの主幹ウィリアム・カレン・ブライアントは次のように論説した。 南部はどこでも自由な言論に寛大では有り得ない。ワシントンでは棍棒と猟刀で言論を抑え付ける。今カンザスで虐殺し、強奪し、殺すことでやっているように。我々は南部の主人達の前で息を詰める思いで喋らなければならない時がきたのだろうか?我々は彼らが奴隷を罰するように罰されるのだろうか?我々は彼らを喜ばすように振舞えないとき、我々も奴隷、一生奴隷、彼らの野蛮な殴打の目標になるのだろうか? 北部中で聞かれた怒りの声は大きく強いものであり、歴史家のウィリアム・ジーナップは新しい共和党の成功は1856年前半では不確かだったが、ブルックスの「襲撃は、もがいていた共和党を大きな政治的力に変える重要な契機になった」と指摘した。 逆に、この行動は南部の新聞で賞賛された。「リッチモンド・エンクワイアラ」はその論説で、サムナーは「毎朝」杖で撃たれるべきだと述べ、襲撃を賞賛して「良い考えだ、刑の執行より勝る、結果として最善だ」と書き、「これら野卑な上院の奴隷制度廃止論者は首輪無しであまりに長く泳がせすぎた。鞭で従わせなければならない」と非難した。
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