北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故
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「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事における「北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故」の解説
1913年(大正2年)10月17日 北陸本線東岩瀬駅(現・あいの風とやま鉄道線東富山駅)で、上り列車と行き違いを行う予定の下り臨時貨物列車第43列車がオーバーランを起こして本線に進入、上り対向転轍機外方約24mの箇所に停車した。手信号による退行中の午前4時23分ごろ、今庄駅前運送店主催の善光寺参詣の旅行者を乗せた、上り臨時団体旅客列車第700列車が停止信号を冒進し衝突した。上り旅客列車は前部に客車10両を、後部に貨車12両を連結した編成であったが、うち客車6両が転覆脱線、客車2両が破損、貨車1両が脱線。旅客24名が死亡(うち18名即死)、旅客106名、職員1名が負傷した(日本経済評論社『事故の鉄道史 疑問への挑戦』では即死21名、救出後事故当日中に死亡した者3名、23日午後に死亡した者2名、重軽傷者104名としている)。 下り貨物列車のオーバーラン、上り旅客列車の停止信号の見落とし(上り旅客列車の乗務員は、夜間に信号を照らす石油ランプの火が消えていたために信号を確認できなかったと証言した)、またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。 下り貨物列車運転士及び上り旅客列車運転士は起訴され、1914年(大正3年)4月7日、上り旅客列車運転士に禁錮8か月、下り貨物列車運転士に罰金200円の刑が確定した。事故の発端であるオーバーランを起こした下り貨物列車側よりも上り旅客列車側の処罰が重い理由は、明治42年制定の列車運行及信号取扱心得第168条において「遠方信号機が確認できない場合は当該信号機に最大の制限のある危害信号(現在の停止信号)の現示があるものとして徐行し、必要に応じて停車しなければならず、場内信号機が停止信号であるならばその手前で停車しなければならない」との規定に違反していたためである。 また、1915年(大正4年)2月1日付で鉄道院の部内処分が行われ、上り旅客列車側の遠方信号機の灯火を理由に東岩瀬駅長が減俸処分、下り貨物列車の緩急車へのブレーキ管の接続が不完全だったにもかかわらず(つながってはいたが、ブレーキはかからない状態だった)発車させ、その際に虚偽報告をした事故当時の富山駅助役(処分発令時は事故の責任により金沢運輸事務所運輸課員に降格されていた)が同じく減俸処分、部下(上り旅客列車乗務員)への監督責任により糸魚川機関庫主任が譴責処分となっている。 この事故を機に安全側線が採用され、日本全国に整備された。安全側線は低速でのオーバーランに対しては有効であるが、運転士が停車操作を行わない場合は安全に停車できず、有効長が短いため砂利盛りに乗り上げるなどして脱線転覆し結局本線を支障することがある。その結果発生した事故の例として、後年に発生した参宮線六軒事故、常磐線三河島事故などがある。これらの事故を教訓にATS、ATCなどのさらなる安全設備が進展した。大正初の鉄道事故。
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