北陸追討軍の壊滅とは? わかりやすく解説

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北陸追討軍の壊滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:38 UTC 版)

平宗盛」の記事における「北陸追討軍の壊滅」の解説

寿永2年1183年2月21日安徳天皇初め後白河法皇への朝覲行幸を行う。この時、宗盛は翌3月追討使発向させることを計画し嫡子・清宗の妻に頼盛の娘を迎えることで一門結束図っていた。2月27日宗盛内大臣辞任する。その意図定かでないが、辞任前に時忠・頼盛・知盛重衡・親宗が集まっているので、一門総意だったと推測される追討使発向は遅れ、4月9日にようやく北陸征討伊勢以下16社に祈願され、4月17日維盛総大将とする10万騎とも言われる大軍北陸道下向する。養和の北陸出兵はるかに上回る規模動員であり、兵粮徴発過程武士の狼藉多発して上下騒動」する。狼藉停止訴え殺到するが、宗盛は耳を貸さなかった。 しかし、平氏総力結集して送り込んだ追討軍は5月11日倶利伽羅峠の戦い6月1日篠原の戦い壊滅しこれまで維持されてきた軍事均衡は完全に崩壊した敗軍京都逃げ帰り6月6日開かれた公卿議定は「士卒その力追討疲れ忽に叶ひ難し」として、伊勢近江敵軍食い止めるしかない結論下している。木曾義仲軍は6月13日には近江進軍する宗盛鎮西から帰還する貞能の軍勢期待していたが、貞能が京都引き連れた軍勢はわずか1,000余騎に過ぎず戦力にならなかった。

※この「北陸追討軍の壊滅」の解説は、「平宗盛」の解説の一部です。
「北陸追討軍の壊滅」を含む「平宗盛」の記事については、「平宗盛」の概要を参照ください。

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