北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 22:45 UTC 版)
「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事における「北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故」の解説
1928年(昭和3年)12月6日 北陸本線刀根駅 - 柳ヶ瀬駅間(のちに新線切り替えに伴い当該区間は柳ヶ瀬線に分離、1964年〈昭和39年〉廃止)にある柳ヶ瀬トンネル(単線)を走行していた上り556貨物列車(D50形蒸気機関車2両、前部本務機D50 64、後部補機D50 206)が、トンネル内の25 ‰の登り坂で空転を起こして速度が低下し、出口まで25 mの地点で走行不能となった。トンネル内に煤煙が充満したため上り貨物列車の乗員10名が窒息したが、かろうじて前部本務機の乗務員3名が這い出て昏倒した。 トンネル直前にあった雁ヶ谷信号所で待機していた下り553貨物列車の機関車が救助のために牽引し、トンネル外に押し出したが、下り機関車の乗務員2名も昏倒した。結果、上下の貨物列車の乗務員12名全員が窒息し、上り貨物列車の車掌・荷扱手、機関助士見習の3名が死亡した(一部に5名死亡の記録もある)。 事故原因は、2日前に別の鉄道事故で1日間不通になったことにより滞貨していた貨物を大量に牽引していたため重量が超過していたこと、レールに積雪があり車輪が空転していたこと、風が貨物列車にとって追い風となり、煤煙がまとわりついて拡散しなかったことがあげられている。しかし、最大の原因は柳ヶ瀬トンネルが1884年(明治17年)に開通したトンネルであり、明治時代の小さな蒸気機関車にあわせた規格のトンネル断面(後年の標準規格の71 %のサイズしかなかった)で建設されていたことである。そのため、昭和時代になって大型蒸気機関車が通行するようになると空間に余裕がなくなり、煤煙が充満して当該窒息事故が発生した。 事故対策として、全国の長大トンネルで列車が入ると煤煙にまかれないように遮断幕を下ろす設備が整備されたほか、蒸気機関車の運転室に煤煙が入らないように、集煙装置がつけられるようになった。
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