新線検討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 19:31 UTC 版)
1928年(昭和3年)12月に柳ヶ瀬トンネル内で延べ5名が窒息死する事故(北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故)が起きた。 窒息事故はしばしば起こっていたが、この時は未明に雪も止み、低温で線路が凍結していたため、疋田駅を過ぎる辺りから車輪の空転が激しくなり速度はかなり落ちていたという。45両の貨物編成が雁ヶ谷口手前約30mのところで遂に発進不能になってしまい、異変に気づいた後続補機の乗務員が本機乗務員の救助に向かったが彼らもまた窒息、なんとか2名が雁ヶ谷口まで這い出した。そこで雁ヶ谷信号場で待機していた下り列車の機関士が異変に気づき、下り機関車を発動し、上り列車を押し出す形で刀根駅まで戻したが、この下り機関車の機関士にも犠牲者が出た。刀根村で介抱し蘇生に努めたがついに叶わなかった。この惨事を鑑み、国鉄は隧道幕、集煙装置設置など対策を施し始める(1933年設置)と共に、深坂トンネル経由の新線建設を決定した。 1938年(昭和13年)になって新線に着手されたが、第二次世界大戦の戦局悪化に伴い1944年(昭和19年)に工事が中断された。1946年(昭和21年)に再開したものの、1949年(昭和24年)に再中止、1950年(昭和25年)に再着工と中止と再開が繰り返され、1953年(昭和28年)に深坂トンネルは完成したが、前後の取り付け工事がこの時点で終わっていなかった。 深坂トンネルの新疋田側坑口から敦賀まではなお87メートルの標高差があり、そのままでは目標とする10パーミル勾配に抑えることが難しかった。そこで登り勾配となる上り線に対してのみループ線を設けて10パーミル勾配に抑えて新疋田に取り付き、下り勾配の下り線は25パーミル勾配で従来の線路に取り付いて敦賀へ向かう構想とされていた。しかし、上り線用のループ線工事は1953年(昭和28年)に先送りが決定されて中断した。この結果、下り線に使う予定であった25パーミル勾配を用いて従来線に取り付く線路のみが工事されることになった。1957年(昭和32年)10月1日に漸く木ノ本 - 敦賀の新線が開通し(同時に田村 - 敦賀間は交流電化)、旧線は柳ヶ瀬線として分離された。新線と旧線(柳ヶ瀬線)の敦賀側の合流点には鳩原信号場が置かれ、敦賀までの区間の線路を共用した。
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