北陸道の惣職とは? わかりやすく解説

北陸道の惣職

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 13:46 UTC 版)

前田利家」の記事における「北陸道の惣職」の解説

天正12年1584年8月、利家が先導役を果たし秀吉10万大軍率いて越中国攻め込むと、佐々成政降伏した富山の役)。利家の嫡子前田利長越中国の4郡のうち砺波射水・婦負の3郡を加増され、前田一族で765千石達す同年4月に、越前国国主である丹羽長秀没したのち、丹羽家国替えとなり、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位上った秀吉から諸大名窓口としての機能求められのであるとりわけ蒲生騒動の件では徳川家康に代わって奔走し秀吉から処分取り消し引き出した天正13年1585年7月秀吉関白任官し9月秀吉豊臣姓を賜ると、天正14年1586年)に利家に羽柴氏名字)を名乗らせ筑前守左近衛権少将任官させている(前田家譜)。天正16年1588年)には秀吉から豊臣姓(本姓)をも下賜された。 天正14年1586年7月から同15年1587年4月にかけて、利家は秀吉九州征伐において、8,000の兵で畿内守備した息子の利長が九州まで従軍している。 天正18年1590年1月21日参議任じられる前田家譜)。また、秀吉主催した北野大茶湯後陽成天皇聚楽第行幸にも陪席する。その後奥州伊達政宗などに対して上洛求め交渉役となる。 北条氏制圧のための小田原征伐では北国勢の総指揮として上杉景勝真田昌幸と共に上野国入り北条氏北端要所松井田城攻略、他の諸城次々と攻略した続いて武蔵国入り鉢形城八王子城を陥す(上杉家文書前田家譜)。7月5日北条氏降伏陸奥国伊達政宗もこの時すでに小田原出向いて降参していたが、彼に対す尋問は利家らが行ったという(伊達治家記録)。先に上洛促していることや、秀吉への奏者務めていることなど、利家は伊達政宗南部信直との外交についても取次をしており、南部信直との交渉天正14年8月ごろから確認される小田原落城後、秀吉奥羽へ軍を進める。秀吉自身8月帰陣の途についたが、利家らは残って奥羽鎮圧努めた

※この「北陸道の惣職」の解説は、「前田利家」の解説の一部です。
「北陸道の惣職」を含む「前田利家」の記事については、「前田利家」の概要を参照ください。

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