北陸道の惣職
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天正12年(1584年)8月、利家が先導役を果たし、秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと、佐々成政は降伏した(富山の役)。利家の嫡子・前田利長が越中国の4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増され、前田一族で76万5千石に達す。同年4月に、越前国の国主である丹羽長秀が没したのち、丹羽家は国替えとなり、それに伴い利家は豊臣政権下における北陸道の惣職ともいうべき地位に上った。秀吉から諸大名の窓口としての機能を求められたのである、とりわけ蒲生騒動の件では徳川家康に代わって奔走し、秀吉から処分の取り消しを引き出した。 天正13年(1585年)7月、秀吉は関白に任官し、9月に秀吉が豊臣姓を賜ると、天正14年(1586年)に利家に羽柴氏(名字)を名乗らせ筑前守・左近衛権少将に任官させている(前田家譜)。天正16年(1588年)には秀吉から豊臣姓(本姓)をも下賜された。 天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて、利家は秀吉の九州征伐において、8,000の兵で畿内を守備した。息子の利長が九州まで従軍している。 天正18年(1590年)1月21日、参議に任じられる(前田家譜)。また、秀吉が主催した北野大茶湯や後陽成天皇の聚楽第行幸にも陪席する。その後は奥州の伊達政宗などに対して上洛を求める交渉役となる。 北条氏制圧のための小田原征伐では北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入り、北条氏の北端要所の松井田城を攻略、他の諸城も次々と攻略した。続いて武蔵国に入り、鉢形城・八王子城を陥す(上杉家文書・前田家譜)。7月5日、北条氏は降伏。陸奥国の伊達政宗もこの時すでに小田原に出向いて降参していたが、彼に対する尋問は利家らが行ったという(伊達治家記録)。先に上洛を促していることや、秀吉への奏者を務めていることなど、利家は伊達政宗や南部信直との外交についても取次をしており、南部信直との交渉は天正14年8月ごろから確認される。小田原落城後、秀吉は奥羽へ軍を進める。秀吉自身は8月に帰陣の途についたが、利家らは残って奥羽の鎮圧に努めた。
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