動力近代化と「薄明かりの時代」、そしてドイツ再統一まで (Epoche 4)
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「ドイツの鉄道史」の記事における「動力近代化と「薄明かりの時代」、そしてドイツ再統一まで (Epoche 4)」の解説
鉄道「冬の時代」の流れを変えるきっかけとなった要因の一つは、1964年、日本において東海道新幹線が開業し、それが大成功を収めたことであった。ヨーロッパ各国では当初、新幹線の計画を一笑に付していたが、新幹線開業後の大成功は、高速鉄道の有効性を世界に知らしめることとなった。これに刺激されるかのように、西ドイツ国鉄でも特急列車の速度向上に取り組むようになり、1968年には最高速度200km/hの営業運転を開始(1年後に中止)する。また、動力近代化の名の下に、多数残っていた蒸気機関車を電気機関車やディーゼル機関車に置き換えることや、コンピュータの導入なども、強力に進められた。 1971年には、ドイツの各都市間を結ぶ特急列車「インターシティ」(IC) 網が構築された。TEE並みの全車1等車(1970年代末期からは2等車も加わる)、2時間間隔のパターンダイヤ、主要駅における異系統列車の相互接続といった思想は、日本のエル特急などにも影響を与えた。同じ1971年には、世界初のインバータ制御車両(電気式)が西ドイツで開発されている。1977年には西ドイツから営業用の蒸気機関車が姿を消し、また同年よりインターシティの最高速度200km/h運転も始まった。さらに、時速200km/h以上の高速運転が可能な高速鉄道「ICE」の開発や、高速新線の建設も始まった。1970年代には、西ドイツの鉄道は、日本やフランスと並び、世界をリードする存在となった。 一方、経営的には、非常に厳しい状態となっていた。モータリゼーションの発達で利用客は減少し、不採算の赤字ローカル線は合理化あるいは廃止され、鉄道網は大幅に縮小された。1980年代には西ドイツ国鉄の経営状態は破滅的となり、何らかの抜本的改革が必要となっていた。ちょうど1987年、日本の国鉄が分割民営化されたのを受けて、西ドイツでも経営の改善を目的に国鉄の民営化を模索するようになる。 東ドイツでは、鉄道はなお国家の重要インフラと位置付けられた。しかし1960年代以降、東西ドイツ間の経済格差は拡大するようになっていた。鉄道においても例外ではなく、東ドイツ国鉄の水準は西ドイツ国鉄に比べて見劣りがするようになった。電気機関車やディーゼル機関車の投入も実施されたが、蒸気機関車も遅くまで残り、営業運転を終了したのは1988年、西ドイツよりも11年遅かった。また、西ドイツのインターシティに対抗するような都市間特急列車も運転されるようになったが、スピードやサービスの面では大きく劣っていた。技術水準も1950年代後半で停滞したままで1980年代を迎えることとなる。東ドイツは東側諸国では経済的に優良だったとは言え、1980年代は東側諸国の経済低迷で、インフラの維持も困難になっていた。ただ、鉄道は多くの国民にとってなくてはならない存在であり、ローカル線も多数が存続していた。
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